書籍目録

『1591年から1610年の日本におけるイエズス会出版(図書目録)』

サトウ / (チェンバレン)

『1591年から1610年の日本におけるイエズス会出版(図書目録)』

私家版 チェンバレン旧蔵書き込み本 1888年 [ロンドン刊]

Satow, Ernest Mason / (Chamberlain, Basil Hall).

THE JESUIT MISSION PRESS IN JAPAN. 1591-1610.

Privately Printed, [London], 1888. <AB2020345>

Donated

4to (21.7 cm x 27.5 cm), 1 leaf(blank), Half Title., Title(signed by B.H. Chamberlain), 2 leaves, pp.[1], 2-54, 2 leaves(blank), Plates:[13], 1 with a small leaf(ERRATA), Contemporary light blue cloth.
主に余白上部に水シミとカビ跡あり。一部のページが綴じから外れている状態で製本に傷みあり。

Information

天草版をはじめとしたキリシタン版研究の端緒を開いたサトウの大作 サトウの親しい友人で明治期を代表する日本学者チェンバレン旧蔵書

 本書は、キリシタン版研究の端緒を開いたとされる名著で、幕末から明治初期にかけて英国の外交官として日本の政治状況に多大な影響を及ぼしただけでなく、古今の日本語に精通して英国における日本研究の基礎を築いたことでも知られるアーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843 - 1929)が、私家版として1888年にわずか100部限定で出版したと言われているものです。しかも、本書は見開きに残された蔵書票から分かるように、サトウと並ぶ明治初期を代表する日本学者で、サトウの友人でもあったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850 - 1935)の旧蔵書であると思われる非常に貴重な一冊です。

 サトウやチェンバレンは自身の蔵書に蔵書票を付ける習慣があったことが知られていて、和書、洋書にそれぞれ異なる蔵書票や蔵書印を残しています。チェンバレンは和書には、自身の名前を意訳して漢字にした「英玉堂蔵書」(イギリス人、玉(Basill)堂(Hall)の蔵書の意)蔵書印を残しています。本書に残された蔵書票には、ラテン語で記された「spes et fides(希望と信仰)」というモットーと、彼の家系を象徴したと思われる図が描かれています。また、タイトルページの右上部余白部分には彼自身の手によるものと思われるサインが記されています。

 本書は、天草版をはじめとしたキリシタン版研究の端緒を開いたという点でその内容が非常に重要な作品であるだけでなく、わずか100部しか刊行されなかったために現在では入手が非常に困難になっているという希少性の点でも非常に貴重な書物ですが、サトウと親交の深かった、明治初期を代表するイギリス人日本研究者であったチェンバレンの旧蔵書という点でも、大変重要な1冊ということができるでしょう。


「当時わが国における活字印刷は朝鮮から伝わったのが最初であるとされ、その以前の1591年にイエズス会による出版が行われたことは殆んど知られていなかった。サトー卿は翌16年(明治16年、1883年のこと;引用者註)に滞日中に掘出し、のちに大英博物館に寄贈した待買堂旧蔵の『落葉集』を持って帰国した。その後明治28年(1895)駐日公使として再来するまでの十数年間はシャム在勤代理総領事、ウルグァイ公使、モロッコ公使を在任し、またこの間1887年から翌年に亘り、イギリス及び欧州諸侯の文庫を訪書し、きりしたん版14種を探求した。『日本イエズス会刊行書誌』(本書のこと;引用者註)はこれ等の成果による。尤も日本イエズス会の刊行書については既に1859年にパジェスが『日本書誌』に記載したが、サトー卿は自から研究してこの14種の他に、付録を付してパジェスの書誌を補訂したのである。この書誌の出版は一部専門家の他はきりしたん版の存在すら知られていなかった当時、全く新しい資料の提出に他ならなかった。」(天理図書館編『きりしたん版の研究』天理大学出版部、1973年、178,179頁より)

「特にこの年(1926年;引用者註)サトー卿の書誌(本書のこと;引用者註)を復刊したことは、本書が斯界におけるベストセラーとしての地位を獲得し、きりしたん版研究者にとって必読の書であったことを物語るものに他はなく、こうした当時の趨勢がこの華々しい隆盛に結びついて行ったとも思われる。尤もサトー卿の書誌は、元来100部限定の私刊本で、当時既に稀覯書に属し入手が容易ではなかった。」(同書、182頁より)

「第5番目に記すのが、『拉葡日対訳辞典』である。パジェスは第54番に記録した。本書はサトー卿の書誌によればボドレアン文庫、雷電大学図書館およびキングス・カレッヂのマースデン文庫に所蔵することが判る。現ロンドン大学オリエント・アフリカ研究学校の書物は、このマースデン文庫旧蔵のものである。現存するのは以上の3本の他にパリの学士院文庫蔵と昭和11年、ラウレス師(Johannes Laures)が、北京の北堂文庫で発見された2本がある。第7本目はプチジャン司教(Bernard Peti-Jean)が1870年、ローマにて本書中のポルトガル語を除外して『拉日辞典』を出版したその原本で、これは前年マニラで発見したものである。しかし明治7年(1874)の横浜教会火災の際に消失したのか現存していない。(後略)」(同書、167頁より)

「バジル=ホール=チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850〜1935)はアーネスト=メイスン=サトウ(Ernest Mason Satow, 1843〜1929)、ウィリアム=ジョージ=アストン(William George Aston, 1841〜1911)とともに代表されるイギリス人三大日本学者の一人であった。
 1873(明治6)年5月に来日した彼はまもなく築地の海軍兵学寮(のち海軍兵学校)の英学(英語)教師の職を得て、かたわら荒木蕃、鈴木庸正などについて日本古典の研究をはじめた。その成果を1872(明治5)年に樹立されていた英米系日本研究団体である日本アジア協会の研究紀要へ矢つぎばやに発表して行ったのである。さらに『日本の古代詩歌』(1880年)や『英訳古事記』(1882年)を刊行し日本の古典を世界に紹介して、日本学者としての地位をゆるぎないものとした。こうした彼の研究は当時の日本知識者の注目するところとなり、ついには友人森有礼の仲介により、1886(明治19)年、帝国大学文科大学(東京大学文学部)の博言学(言語学)と日本語学の教授に就任した。
 この経歴や業績からもわかるよう、チェンバレンは日ごろより日本通として知られていたため、『日本のことについて、常によく質問を受ける。そこで、その返事を辞書の形にして”まとめたのが彼の代表作となった『日本事物誌』Things Japanese であった。」
(楠家重敏『イギリス人ジャパノロジストの肖像:サトウ、アストン、チェンバレン』近代文芸社、1998年、125,126頁より)

刊行当時に施されたのではないかと思われるクロス装丁だが、上部を中心に湿気による傷みが激しい。
見返し部分にはチェンバレンの蔵書表が貼り付けられている。
ラテン語で記された「spes et fides(希望と信仰)」というモットーと、彼の家系を象徴したと思われる図が描かれている。
タイトルページ。
傷みがあるため判読しづらいが、チェンバレン自筆と思われるサインが残されている。
序文冒頭箇所。
目次。
正誤表。
天草版の金字塔として知られる『羅葡和辞典』など、多くのキリシタン版をその詳細と所蔵先、タイトルページの複製図などと共に紹介し、キリシタン版研究の端緒を開いた不朽の名著として知られる。
書誌学に深い造詣があったサトウの記述は今なお有用である。
私家版としてわずか100部しか刊行されなかったとされる希少本で、1926年にはすでに入手が困難とのことで日本国内で復刻版が刊行されている。
(参考)チェンバレンは、和書の蔵書には蔵書票ではなく、蔵書印を押印していた。上記はその一例。自身の名前を意訳して漢字にした「英玉堂蔵書」とは、「イギリス人、玉(Basill)堂(Hall)の蔵書」の意。