書籍目録

「ファン・デル・カペレン海峡(関門海峡)図」(『日本』フランス語訳版 図版8)

シーボルト

「ファン・デル・カペレン海峡(関門海峡)図」(『日本』フランス語訳版 図版8)

フランス語訳版 1838年頃 [パリ刊]

Siebold, Philipp Franz von.

GEZIGT OP DE STRAAT ANSICHT DER STRASSE VAN DER CAPELLEN. Vue du détroit de Vander Capelle. (VOYAGE AU JAPON. PLANCEE 8)

[Paris], Arthus Bertrand, c.1838. <AB2020339>

Sold

Extracted from Nippon of French ed.

1 colored lithograph,

Information

シーボルトが重要視した関門海峡を描いた手彩色リトグラフ作品

 本図は、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796 - 1866)による未完の大著『日本(Nippon)』のフランス語訳版に収録されていた図版の一つで、関門海峡を描いた美しい手彩色リトグラフ作品です。シーボルトは1826年の江戸参府途上で下関に立ち寄った際に関門海峡の測量を精力的に実施していることからも分かるように、下関や関門海峡が、日本における海上交通の要所として非常に重要であることを強く認識していました。本図は、シーボルトが『日本』の中に複数収録した下関や関門海峡を題材にした図版の一つで、関門海峡を行き交う船舶と沿岸の人々の様子を描いています。

 シーボルトは1826年2月に江戸参府の途上で下関に到着し、鳴滝塾の生徒と再会して交流を深めただけでなく、関門海峡周辺の測量を熱心に行いました。シーボルトは、それまでの西洋人による日本研究文献の読解や自身の調査から、日本の経済流通と交通における関門海峡と下関の重要性を認識しており、いずれ日本が他国との貿易を許可するようになった際には、同地周辺の正確な情報が必要不可欠になると考えていたと言われています。こうしたシーボルトの認識を反映して、彼の未完の大著『日本』には、下関や関門海峡を題材にした図版が複数収録されていて、本図を含めて下記のように5枚もの図版が製作されています。

1)ファン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の海図
2)ファン・デル・カペレン海峡(関海峡)を描いた図(本図)
3)下関を描いた鳥瞰図
4)海難多発所として知られていた与治兵衛瀬に当時立っていた等を描いた図
5)阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を描いた図

 本図はこのうち、2) にあたるものですが、海峡の名前が「ファン・デル・カペレン」となっているのは、シーボルトが、自身の日本派遣に際して尽力してくれた恩人であるオランダ東インド総督ファン・デル・カペレン(Van Der Capellen, 1778 - 1748)に敬意を評して、彼の名を海峡名としてシーボルトが独自に名付けたことによっています。このことは、自身の恩人の名を海峡名に採用するほど、シーボルトが関門海峡を重要視していたことの表れとも言えるでしょう。事実、後年になって日本が開国した際に欧米列強諸国(特にイギリス)は、日本との安定した貿易を維持するためには、同地周辺の正確な海図作成が必要不可欠であると考えました。

*シーボルトと下関の深い関係については、竹森健二郎「ケンペルとシーボルトの下関」宮崎克則編『ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そしてニッポン』海鳥社、2009年所収論文等を参照。


 本図は、シーボルトが分冊形式で約20年(1832年〜1851年)もの長きに渡って刊行を続け、ついに未完に終わった大著『日本』に収録されたものです。同書には、ドイツ語版とフランス語版(後にはロシア語版もあり)とが存在していて、本図は、このうちのフランス語版に収録された図版です。フランス語版はドイツ語版の分冊刊行開始からやや遅れて、1838年頃から分冊刊行が開始されたと言われていますが、予定の半分ほどである12回の分冊で中断してしまいました。フランス語版の図版の特徴については、宮崎克則氏による詳細な研究があり、下記のような指摘がなされています。

「1分冊の図版数は、白黒6枚+手彩色1枚を基本とする。石板で印刷された白黒の図版はすべて薄い紙に印刷され、台紙に貼り付けられている。カラー図版の場合は、石版で直接に印刷され、そして手彩色されている。図版の大きさをドイツ語版と比較すると、ともに2折版であるが、フランス語(縦55.0cm x 横36.0 cm)の方が少し小さい(ドイツ語版 立て59.5 cm x 横39.5 cm)。またフランス語版の図版にWatermark はなく、ドイツ語版にあった(オランダ)ファン・ヘルダー社の透かし文字「VANGELDER」あるいは「VG」は確認できない。別の紙で印刷されている。(中略)右下隅の部分を拡大すると、フランス語版もドイツ語版も同じ石版で印刷されていることをはっきり確認できる。つまり、すでに作成されていたドイツ語版用の石版を使用しているのである。
 ただし、図版の隅に記されるタイトルは変更している。ドイツ語版の左上にあった「NIPPON I」などのタイトルは、「VOYAGE AU JAPON」へ、右上にあった「TAB. I」の番号は「PLANCHE」へ。そしてフランス版の下部に、出版社の「Arthus Bertrand. Editeur」(ベルトラン社刊)と図版印刷社の「Imp. De Lemereier」(ルメルシエ印刷)を追加している。これはすべてのフランス語図版に共通している。石版に描かれた絵の一部を描き直して印刷することは可能だったので、フランス語版の図版は新たに石版を作って印刷したのではなく、タイトルなどの文字を変更してドイツ語版で作った石版を利用している(新たに石版を作った図もある。後述する)。」
(宮崎克則『シーボルト『NIPPON』の書誌学研究』花乱社、2017年、77頁)

 本図は1838年頃に刊行されたのではないかとされている(宮崎氏の前掲書、81頁を参照)フランス語訳版第3分冊に収録されていた「図版8」にあたるものです。宮崎氏の研究によりますと、第3分冊に含まれる図版のうち、手彩色が当初から施されている図版は「町人の服装」図とされていて、本図は刊行時点では彩色が施されていなかった白黒図版であったことが分かります。また、白黒図版の特徴とされている「薄い紙に印刷され、台紙に貼り付けられている」という特徴にも合致しますので、本図に施されている非常に美しい手彩色は、刊行時の出版社によるものではなく、当時の所有者、あるいは後年に施されたものと考えらます。いずれにしましても、シーボルト『日本』は、その完本が非常に希少であることは言うまでもありませんが、良好な状態で個別の図版が見つかることも非常に少なく、またシーボルトが非常に重要視していた関門海峡をの情景を題材としていること作品という点においても、本図は大変貴重な1枚と言うことができるでしょう。