書籍目録

『日本国京都のイエズス会士オルガンティノによるイエズス会総長アックアヴィヴァ宛書簡』

オルガンティノ

『日本国京都のイエズス会士オルガンティノによるイエズス会総長アックアヴィヴァ宛書簡』

初版 1597年 ローマ刊

Organtino, Gnescchi-Soldo.

COPIA DI DVE LETTERE SCRITTE DAL P. ORGANTINO BRESCIANO DELLA COMPAGNIA DI GIESV dal Meaco del Giapone. AL MOLTO R. IN CHRISTO P. N. IL P. CLAVDIO ACQVAVIVA Preposito Generale. Tradotte dal P. Gio. Battista peruschi Romano della medesima compagnia.

Roma, Presso Luigi Zannetti, 1597. <AB20175>

Sold

First edition

8vo, pp. [1-2]3-58, 1leaf, Later half cloth
後年の半クロス装。日本産と思われる木製ケース入り。

Information

 本書は、イエズス会士オルガンティノ(Organtino Gnecchi-Soldo, 1533-1609)による、1594年と1595年に京都から発信された日本についての布教報告書簡2通を収めたものです。

 オルガンティノは、30年以上にわたって京都を中心とした近畿地方で布教を行い、日本人のような服装をまとい食事をとり、日本語にも堪能であったことから、「うるがんばてれん(宇留岸伴天連)」の愛称で呼ばれ、多くの日本人に慕われました。織田信長にも重用されたほか、豊臣秀吉とも交流が深い宣教師でもあり、織豊時代の西欧人の証言者としては、ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532 – 1597)と並ぶ人物です。京都に1576年に建設された「南蛮寺」(現同志社大学今出川校地付近にあったとされる)も彼によるもので、織豊時代の京都を知る上で欠かせない重要人物です。また、芥川龍之介の小説『神々の微笑』の主人公としても登場しています。
 
 前半に収録される書簡は、1594年9月29日付でミヤコ(Meaco, 京都のこと)から発信されたものです。1591年の天正遣欧少年使節の帰国以降、再び京都在住を許されてからは、目覚ましい布教の成果が上がっていることを強調しており、今や京都所司代(前田玄以法印)の愛息さえも洗礼を受けたことを報告しています。また、秀吉の統治方法の特徴について10の項目ごとに報告しており、武力紛争の厳格な禁止によって平和が訪れたことや、その一方で社会基盤の大部分を支える農民に対しては過酷な窮乏状態にあえて追いやっていることを述べています。全体として、布教の見通しは極めて明るいことが報告されており、それゆえに一層の人員派遣を総長に随所で求めています。

 なお、本書簡冒頭で、オルガンティノは、温泉(bagini)に二度行ったおかげで、極めて健康であることを述べており、この温泉というのが京都近郊のいずれの温泉のことを指すのかは分かりませんが、江戸時代以前の湯治文化の東西邂逅がさりげなく触れられているということも、なかなか興味深い点です。
 
 後半に収録されている書簡は、1595年2月14日付で同じく京都から発信されたものですが、前書簡に比べてこちらの方がかなり長文になっています。前書簡のわずか4ヶ月ほど後に書かれたものであるにも関わらず、秀吉による迫害の可能性についてかなり敏感になっている様子が伺えます。しかし、布教の見通しについては依然として希望を持って報告されており、畿内を中心とした布教動向についてそれぞれ詳細に述べられています。

 書簡内で言及されている人物を列挙するだけでも、豊臣秀吉、その妻である高台院(北政所)、小西行長、前田玄以(京都所司代)、その息子である前田茂勝とその兄の前田秀以、織田秀信(信長の孫)とその弟織田秀則、細川ガラシャ、その夫である細川忠興の弟、細川興元、その両親、細川幽斎、沼田麝香(じゃこう)、高山右近、毛利輝元、宇喜多直家とその異母弟である宇喜多忠家、その息子、宇喜多詮家(坂崎直盛)、蒲生氏郷(何故か洗礼名が前半ではパウロ、後半ではレオンとある)、池田教正、小西行長の弟である小西如清とその妻アガタ、アガタの父である日比屋了珪、施薬院全宗と、秀吉政権下に登場する錚々たる人物が多数含まれています。

 細川ガラシャの死(1600年)に感銘を受け、熱心なキリシタンになったとされる沼田麝香(じゃこう)が、書簡執筆当時(1595年)は、息子の細川興元の受洗に対して批判的であったことや、熱心なキリシタンでありながらも秀吉から信頼の篤かった会津の蒲生氏郷を通じてメキシコへの航路が開かれる可能性(ただし、この書簡発信直前に蒲生氏郷は病没)に言及している点など、大変興味深い点です。

 それ以外にも、検校(けんぎょう,ciego)の中でも特に重要と目されていたとされる当時84歳のジョウチン・ウガ殿(Vgonadono Ioachimo、日本名の特定できず)が熱心なキリシタンであったことから、彼の影響を受けた検校たちの多くがキリシタンになりつつあることを報告しています。この点は、やや後の17世紀初頭を代表する検校で、近世箏曲の祖とされる八橋検校による、箏曲の「六段の調」と、グレゴリオ聖歌の「クレド」との関係を指摘する近年の研究(皆川達夫、2011年)を検証するための素材となりうるかもしれません。

 「イタリア人イエズス会士オルガンティノ・ニエッキ・ソルド神父の2通の書簡を所収する。1594年9月29日付と1595年2月14日付の、ともにミヤコから発信した総長クラウディオ・アックアヴィヴァ宛の書簡である。本書の末尾には、2通の書簡がポルトガル語とスペイン語からイタリア語に正確に翻訳されているので、印刷する旨の総長の裁可が付されている。 この裁可の文からは2通の書簡がポルトガル語とスペイン語でローマに届いたようであるが、これらの言語によって本書簡が刊行されたことはなく、このイタリア語によるものが、初版である。また、現在、ローマのイエズス会文書館には、ポルトガル語やスペイン語のものは伝わっておらず、ともにイタリア語による書簡が所蔵されている(Jap.Sin, 12 I, ff.184-186v; Jap.Sin. 12 II, ff.252-258v)。
 オルガンティノは前書簡で、イエズス会による日本での宣教の成果と、関白豊臣秀吉のキリシタンに対する態度や日本国支配の方法などを伝えている。また後書簡では、イエズス会による宣教の一般的な展望を簡単な展望を述べた後、自身が京都地区の上長であったことから、ミヤコ、大坂、美濃と尾張両国などミヤコ周辺地域の宣教と代表的キリシタンの動向を報告している。なお、この2通の書簡は、イタリア語訳された本書の他に、ラテン語訳されてIoanne Hayo, Derebvs Iaponis, Indicis, et Pervantis Epistolae Recentiores, Antverpiae, 1605(ジョン・ヘイの『イエズス会士書簡集』)にも収められている。
(高祖俊明「ラウレスキリシタン文庫データベース解説(JL-1597-KB1-223-131)」より)