書籍目録

『和年契:最初のミカドにして征服者である神武から最新の時代(紀元前667年から1822年)に至るまでの日本の歴史年表』

シーボルト / ホフマン

『和年契:最初のミカドにして征服者である神武から最新の時代(紀元前667年から1822年)に至るまでの日本の歴史年表』

Bibliotecha Japonica版(第6巻) [1842年] [ライデン刊]

Siebold, Philipp Franz Balthasar von / Hoffmann, Johann Joseph.

WA NEN KEI, ODER GESCHICHTSTABELLEN VON JAPAN, VON ZIN MU, DEM EROBERER UND ERSTEN MIKADO, BIS AUF DIE NEUSTE ZEIT [667 VOR CHR. BIS 1822 NACH CHR. GEB.],…

[Leiden], [1842]. <AB2020178>

Sold

Bibliotheccha Japonica edition (vol.6).

Folio (28.5 cm x 39.8 cm), 1 leaf(blank), pp.[I(Title.)-III], IV-VIII, [1], 2-80, Modern half leather on marble boards.
旧蔵機関によるタイトルページへのパンチ穴あり。

Information

1842年3月付のシーボルト自身による非常に興味深い序文解説が付されたBibliotecha Japonica版

 本書は、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796 - 1866)と、シーボルトの弟子で当時のオランダのみならず、ヨーロッパを代表する東洋学者であったホフマン(Johann Joseph Hoffmann, 1805 - 1878)が協力して出版した日本の歴史年表です。日本と中国の歴史年表として18世紀から19世紀にかけて日本国内で広く流通していた『和漢年契』のうち、日本の部分だけをドイツ語に翻訳して『和年契』と題して刊行されています。もともとは、シーボルトの大著『NIPPON』の第4巻に、原著ファクシミリ版(Wa nen kei, sive succincti annales japonici auctore. Leiden, 1834.)と共に収録(1840年頃と考えられる第9回配本)されていたものですが、本書はシーボルトによる日本語学習のための教材叢書である Bibliotheca Japonica の第6巻として独立した書物として刊行された版です。このBibliotecha Japonica版は、テキストそのものは『NIPPON』収録版と同じですが、1842年3月付のシーボルト自身による序文解説を付されていることが大きな特徴で、シーボルトが改めて本書の内容と意義を解説した非常に興味深い内容となっています。この序文におけるシーボルトによる本書の解説は、本文理解のための助けとなるだけでなく、シーボルトの歴史観や、日本の歴史を正しく理解することによって、どのようなことを構想していたのかをも明らかにしており、必読に値するものと思われます。

 シーボルトは、序文において、まず1832年に配本が始まった『NIPPON』において、日本の文献に基づいた神話や古代の歴史についての多くの知見を提供してきたことを述べていて、その中で、ホフマンが日本の年代記の名著として名高い『日本王代一覧』に取り組もうとしたことが紹介されています。シーボルトによると、ホフマンがこのテキストを選んだ理由は、それが優れた書物であったことに加えて、ティツィング(Isaac Titsingh, 1745 – 1812)による翻訳草稿が残されたことが大きかったと言います。ティツィングは、1779年8月から1784年11月までの間、3度、述べ3年半にわたって日本商館長を務め、離日後も日本研究を精力的に続け、膨大な収集コレクションや研究草稿を残しながらも、ついに生前ほとんどの研究成果を公刊することがなかった日本研究の泰斗で、彼の遺した草稿やコレクションは死後、徐々に散逸しつつも、当時のヨーロッパの東洋学者にとって研究素材の宝庫として活用されていました。ホフマンは、ティツィングの遺した『日本王代一覧』の草稿を元にその研究、翻訳に取り組もうとしたようですが、あいにく当時その草稿はフランスの東洋学者として著名なクラプロート(Julius Heinrich Klaproth, 1783 - 1835)の手元にあり、クラプロート自身がこの草稿を大幅に加筆編纂して、1834年に『日本王代一覧』( Nipon o daï itsi ran, ou annales des empereurs du Japon. Paris, 1834.)として刊行してしまいました。シーボルトは、クラプロートによるこの作品を一定評価しつつも、多くの誤りや、典拠が定かでない注釈の挿入によって、学問的に十分に活用し得ない作品であると暗に批判(シーボルトとクラプロートは互いに面識があり、その関係には紆余曲折があったことが知られる)していて、これに代わる、より正確な日本の歴史書として『和年契約』の翻訳に取り組むことになったと、『和年契』出版の経緯を明らかにしています。

 本書の原著となった『和漢年契』は、紀元前667年から1822年までの日本の年代記として非常に優れた記述を含む作品である一方、その読解にはシーボルトにとって難解なところが少なくなかったようです。シーボルトによると、彼はすでに日本滞在中から日本の歴史研究に取り組んでおり、その際に日本の友人から『和漢年契』が日本の歴史研究に最適な書物であると勧められて、その研究を始めたということですが、いざ取り組み始めると非常に難しく、シーボルトの滞日中の協力者の一人であったオランダ通辞である吉雄忠次郎(Josiwo Tsusiro)に平易な日本語にして解説してもらいながら、読解を進めていったそうです。この時に作成されたノートは本書刊行に際しても参考にされたようですが、驚くべきことにホフマンはこれとは別個に自力でも原著に取り組み、『日本王代一覧』なども参照しつつ、本書の翻訳を完成させたということです。こうしたシーボルトやホフマンによる研究過程で生み出された成果の一端が、本書の読者のための注釈として盛り込まれることになったということも説明されています。序文における、こうした翻訳経緯や、参照した情報源、同時代の東洋学社クラプロートとの微妙な関係についての記述は、シーボルトとホフマンによる日本研究の内幕を垣間見せてくれるものとして、大変興味深い内容と言えるでしょう。

 また、シーボルトはこの序文において、本書の意義や、特徴についても詳しく論じており、シーボルトによる日本研究全体において、『和年契』と歴史研究が、どのような位置付けにあったのかを知るための大きな手がかりも提供してくれています。シーボルトによると、年代記(年表)のような物は、無味乾燥としたものでそれ自身が楽しさをもたらすような学問ではないが、それがもたらしてくれる果実は歴史学の分野に限らず、地理学や自然誌、統計学や、宗教研究においても実に多大であると言います。自然誌研究や天文学研究といった自然科学の分野においても、年代記に登場する天変地異や、災害、彗星といった自然現象の記述は非常に貴重な情報をもたらしてくれることや、日本と近隣諸国との関係の記述も豊富に含まれていることから、東アジア周辺地域の交流を理解する上でも非常に重要であるとシーボルトは述べています。1542年のポルトガル人の漂着に始まる、日本と西洋諸国との関係がどのように日本の書物に記されているのかを知ることが出来るため、西洋人にとっても非常に興味深い書物であることを説明し、最も注目すべきこととして、『和年契』においては、こうした西洋諸国との交渉があった時代のことについては、記述が著しく、簡素で乏しいことを紹介しています。キリスト教の交流と弾圧、島原の乱や、1640年のポルトガル使節虐殺事件といった、西洋側の視点では大きな事件として記録されている出来事が、『和年契』では、ほとんど無視されるか、乏しい記述しかなく、これはキリスト教諸国とのかつて交流があったことを想起させないための意図があってのことであろうと、シーボルトは結論づけています。一方で、中国や高麗との関係についての記述は非序に豊かで、古代から現代に至るまでの交流史を辿ることが出来るため、北東アジア諸国間の交流史を理解するためには非常に有用な書物であると述べています。

 本書におけるシーボルトの序文は、本書完成までの興味深い経緯だけでなく、シーボルトによる日本の歴史研究が、日本や北東アジア法海全体にとって非常に重要な位置を占める研究であったことを明らかにしており、シーボルトの日本研究の構想を理解する上で非常に重要な示唆を投げかけてくれています。こうした点において、独立版として刊行された本書は、『NIPPON』収録版とは異なる研究資料としての価値を備えた興味深い日本研究欧文史料ということができるでしょう。

タイトルページ。漢字と併記されているが、漢字は活字でない。
序文冒頭箇所。Bibliotecha Japonica版のためにシーボルトが書いたもので、本書の解説や、シーボルトの歴史観が垣間見える興味深い内容となっている。
序文末尾。1842年3月付となっている。
本文冒頭箇所。
巻末には索引が設けられている。
最近施されたものと思われる装丁で状態は良い。