書籍目録

「日本皇帝謁見記」ほか収録『アスムス全集』

アスムス(=クラウディウス)

「日本皇帝謁見記」ほか収録『アスムス全集』

全8巻(2冊に合冊)  第1巻〜第3巻:1774年 / 第4巻〜第8巻:1835年 第1巻〜第3巻:ヴァンズベク / 第4巻〜第8巻:カンシュタット刊

ASMUS (Claudius, Matthias).

ASMUS omnia sua SECUM portans, oder Sämtliche Werke des Wandsbecker Bothen.

Vol.1-3: Wandsbek / Vol.4-8: Cannstatt, Vol.1-3: self published(Beym Verfasser) / Vol. 4-8: Richter, Vol.1-3: 1777. / Vol.4-8: 1835. <AB2020111>

Sold

8 vols. bound in 2 vols.

8vo (12.0 cm x 20.3 cm), 書誌情報については下記解説参照。, Contemporary card boards.
第4巻、第5巻の一部の折丁が綴じから外れており、テープによる雑な補修後あり。見返しに旧蔵者によるラベルの貼り付け、書き込みあり。

Information

理想的な啓蒙君主として描かれた日本の将軍

本書は、アスムス(ASMUS)のペンネームで活躍していた著述家、ジャーナリストであったクラウディウス(Matthias Claudius, 1740 - 1815)の全集(実質的には個人発刊の雑誌と考えられる)全8巻で、第1巻から第5巻までが1冊に、第6巻から第8巻までが1冊に、合計2冊に合冊されています。第3巻までは1774年にヴァンズベクで刊行されているもので、第4巻以降はかなり後年の1835年にカンシュタットで刊行されています。同書には夥しい数の異種版が存在しているようで、それぞれの版で活字の組み方や図版の位置が異なるようですが、内容については概ね同一と見られています。

 本書にはクラウディウスの様々な小作品が収録されていますが、興味深いことに「日本皇帝謁見記」と題された作品をはじめとして、日本を題材とした作品が複数掲載されています。第2巻までに限ってみても、少なくとも下記の3本の作品が確認できるほか、随所においてケンペルや日本のことが言及されています。

①「アスムスによって描かれたヴァンズベク、あるいはある種のロマンス:日本皇帝からの書簡付属」(第1・2巻36頁〜)
②「日本皇帝謁見記」(第2巻38頁〜)
③「山伏の(Jammabo’s)、あるいは日本における山岳司祭」(第2巻76頁〜)

 18世紀ヨーロッパにおける日本研究の金字塔となったケンペルの『日本誌』は、18世紀知識人の最大の日本情報源として大きな影響を与えましたが、本書のように文学作品の題材として日本を用いる作品の誕生を促したことでも知られています。こうした文学作品の多くは、日本を舞台として当時のヨーロッパを風刺するものが多く、自身の政治や文化を相対化するための仕掛けとして日本が用いられています。英語、フランス語、ドイツ語と多くの言語でこうした作品が生み出されたことが分かっていますが、本書はドイツ語作品を代表する作品の一つとして知られるもので、当時のヨーロッパにおける日本観と、それをヒントにして自国の政治や社会を批判的に捉えようとする意図を持った作品と思われます。

 「日本皇帝謁見記」は、オランダ商館長による江戸参府における将軍謁見の場面を舞台とした作品で、作中では、日本の将軍が理想的な啓蒙君主として描かれていて、そこから自国の状況が批評されているだけでなく、日本の言葉を表していると思われる台詞が登場していて、批評的意図の基となった著者の日本情報の一端も示されています。このように、本書において描かれている日本は、フィクションでありながらも当時影響力を有していた日本情報を基に描かれていることから、当時のヨーロッパにおける「日本像」の多彩な様相を示してくれる非常に興味深い文献と言えます。


「ドイツの啓蒙主義に多大な影響を与えた詩人、マティアス・クラウディウスはケンペルの『日本誌』から刺激を受け、彼が編集・発行していた雑誌『ワンデスベッカー・ボーテ』(本書のこと:引用者注)の中で、しばしば日本の事情に触れている。特に、1778年に発行された第3巻に、『日本皇帝謁見記』というフィクションを描き、将軍を啓蒙された支配者のモデルとして描いた。クラウディウスを江戸に連れて行き、その共をしている「いとこ」はケンペルを指している。」
(ドイツ・日本研究所ほか編『ドイツ人の見た元禄時代:ケンペル展』1990年、152頁(展示作品64番解説)より)

「ここで18世紀後半のドイツにおける「啓蒙」の位置づけを示す例を挙げよう。それはマティアス・クラウディウス(Matthias Claudius, 1740-1815)の一連の作品である。非常に興味深いことに、クラウディウスはケンペルの『日本誌』を利用しつつ、その中で啓蒙について(皮肉っぽくではあるが)触れている。クラウディウスは1778年に『日本皇帝謁見記』(Nachricht von meiner Audienz bey’m Kayser von Japan)という、一つのフィクションを発表した。このフィクションの中で「私」なる人物が「甥」とともに日本を訪問する。(「甥」のほうはケンペルをモデルにしていると言われる。)そして「私」と「甥」は江戸で皇帝(将軍)に謁見する。「私」がドイツの知識人について皇帝に説明すると、皇帝はとりわけレッシングに興味を示し、次のようにいう。「私はレッシング氏のことが気に入った。ひょっとして氏は日本に来る気はないだろうか。」このフィクションが発表された1778年にはレッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729-81)は存命中で、その代表作『賢者ナータン』が発表されたのは翌79年のことである。クラウディウスの作品は、フィクションとは言え、もしも実際に江戸時代の日本にドイツ啓蒙主義の中心人物レッシングが来たならば、と想像するだけで微苦笑を誘われる状況設定だが、ここでわれわれにとって重要なのは、日本についてのクラウディウスの叙述の中に、啓蒙主義をめぐる議論が入ってきている、という事態である。(中略)クラウディウスの作品は日本を戯画化している面があり、ドームやケンペルのように「啓蒙」の問題を、正面から議論の対象として扱っているわけではない。しかしながらわれわれとしては、クラウディウスが18世紀後半のドイツにおける流行の概念「啓蒙」を、日本に関連させつつ自作の中に取り込んだという点に、18世紀北ドイツの知的雰囲気の一端をかいま見る思いがするのである。」
(中直一「ケンペル『日本誌』と編者ドーム:「啓蒙」をめぐる議論を手がかりに」『大阪大学言語文化共同研究プロジェクト 2000』2001年所収論文、37頁より)

 なお、本書全巻の書誌情報は下記のとおりです。
[1]
Vol.1 &2: Front., pp.[I(Title.), II], III-VI, V, VI(NO DUPLICATED PAGES), VII-X, [1], 2-114.
Vol.3: Title., pp.[1], 2-100, Plates: [5].
Vol.4: Title., pp.V-VIII, [1], 2-128, Plates: [4].
Vol.5: pp.[I(Title.), II], III-VI, 1-128.

[2]
Vol.6: pp.[I(blank), II(Front.), III(Title.)-VII], VIII-XI, 1-115.
Vol.7: pp.[I(Title.)-III], IV-VIII, [1], 2-151.
Vol.8: Title., pp.[I-V], VI-VIII, [1], 2-199.

第1冊には第1巻から第5巻までが合冊されている。
見返しに旧蔵者によるラベルの貼り付け、書き込みあり。
口絵と第1巻、第2巻のタイトルページ。第1巻と第2巻は当初から合巻だったようである。
本文冒頭箇所。
①「アスムスによって描かれたヴァンズベク、あるいはある種のロマンス:日本皇帝からの書簡付属」(第1・2巻36頁〜)
第3巻タイトルページ。
②「日本皇帝謁見記」(第2巻38頁〜)
③「山伏の(Jammabo’s)、あるいは日本における山岳司祭」(第2巻76頁〜)
第4巻タイトルページ。第4巻以降は1835年に刊行された後年の版となっている。
第2冊には、第6巻から第8巻までが合冊されている。いずれも1835年刊行のカンシュタット版である。