書籍目録

『旅行記三部作』( 「東方旅行記」 「ポルトガル人東方旅行記」 「アフリカ・アメリカ地誌」)

リンスホーテン

『旅行記三部作』( 「東方旅行記」 「ポルトガル人東方旅行記」 「アフリカ・アメリカ地誌」)

仏訳第3版 1638年 アムステルダム刊

Linschoten, Jean Huygen van.

HISTOIRE DE LA NAVIGATION DE IEAN HVGVES de Linschot Hollandois: Aux INDES ORIENTALES…Avec annotations de B. PALUDANUS,… Troixiesme edition augmentee. / LE GRAND ROUTIER DE MER, …. / DESRIPTION DEL’AMERIQVE & des parties d’icelle, comme de la Nouvelle Fra

Amsterdam, Evert Cloppenburgh, 1638. <AB2020104>

Sold

Third edition in French.

Folio (19.5 cm x 30.1 cm), 3 works bound in 1 vol. as usual. Title., 3 leaves(including a portrait of the author), pp.1-112, 115, 116, 113, 114(misbound), 117-151, 186[i.e.152], 153-187, 189[i.e.188], 189-204, 204[i.e.205], 206 double pages plates: [29], folded double pages plate:, [1], LACKING 6 plates & all maps. / Title., 1 leaf(preface), pp.1-117, 108[i.e.118], 119-151, 151[i.e.152], 133[i.e.153], 154-181. / Title., pp.1-20, 19[i.e.21], 22-56, 59[i.e.57], 58-60, NO LACKING PAGES, 67-86. Contemporary parchment.
地図と数枚の図版6枚欠落あるがタイトル頁、リンスホーテンの口絵、30枚の図版は残存。テキスト完備。一部の紙葉に染みが見られるが判読に支障なし。かなり以前に改装された形跡あり。

Information

オランダ語原著のテキスト、図版を忠実に翻訳したフランス語訳決定版

 本書は、新興国オランダの東方進出への大きな契機となったことであまりにも有名な、リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten, 1562? - 1611)の「東方旅行記」を含む『旅行記三部作』をはじめて完全にフランス語に翻訳した仏語訳第2版の再版となる第3版です。フランス語への翻訳版は、1610年に刊行されたものが最初ですが、これは後述するように多くの省略や不備があったため、実質的な完全訳版としては本書が底本とした第2版が最初のものとなります。フランス語訳は特に第2版以降、オランダ語原著と出版社も同じくしており、ほぼ公式版としての位置付けが与えられていて、他の翻訳版よりも完成度が高いとことでも知られています。本書は残念ながら図版6枚と地図を欠いていますが、印象的なリンスホーテンの肖像画やタイトルページ、本文テキストについては完備しており、日本関係欧文資料として、研究上十分に価値のある状態を保っています。

 著者のリンスホーテンは、オランダ北部ハーレムの出身で、兄弟の住むスペインに渡り、オランダと戦争状態にあったスペインでも自由が保証されるカソリック教徒として滞在し、スペイン語を習得したのち、インドのゴア大司教に新しく任命されたフォンセッカ(João Vicente da Fonseca, 1530? - 1580)の書記として兄と共にゴアに向かいました。5年余りのゴア滞在中、ゴア以東に自ら赴くことはしなかったものの、ポルトガルによるインド貿易の中心地であったゴアに長期間滞在することができた貴重な機会を存分に活かして、帰国後に書き溜めておいた資料を整理して、『旅行記三部作』を完成させました。

「彼の旅行記は帰国後早々に執筆せる ”Itinerario” におさめられ1594年10月8日付にてオランダ議会から出版の允許を得、出版を完了したのは1596年の始めであった。この旅行記は三部分より成り、
 第一部は Linschoten の旅行記そのもので本文の間にイタリックで書いた部分は Enckhuizen の名医で学者、旅行家の Bernard te Broecke(ラテン式には Haludanus という、1550-c.1634)の挿入した文である。
 第二部は第一部より先き1595年に刊行された。これは彼が Goa にて熱心に輯集したスペイン・ポルトガル人の航海記により訳せるインド、南洋、アメリカなどの航路に関するもので、特に委しく Malacca 以来、Malay Archipelago, 中国沿岸、日本などへの航路を記述し、附録としてスペイン語より訳した、スペインの領土、財政、軍事等及びポルトガル王室の起源を加えた。これが直接オランダに利益したのみならず、本書の公刊により従来秘密にせられていたスペイン・ポルトガルの東洋に於ける植民政策の脆弱・腐敗を暴露しオランダ・イギリスの進出を招来し、やがてスペイン・ポルトガルの東洋に於ける政策を破綻に導くに至った導火線の役目を果たしたものである。
 第三部はアフリカ東・西岸の概略とアメリカの細説とがある。則ちCongo は Lopez、アメリカは Peter Martyr と Oviedo、Brazil はJean de Lery などの先人の記事を利用し Paludanus の助力により編したものである。」
(中村拓『鎖国前に南蛮人の作れる日本地図 II』東洋文庫、1966年、352頁より)

 中でも「イティネラリオ(旅行記)」と題された「東方案内記」は、リンスホーテン自身による航海記の形を取りつつも、マッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1533- 1603)、メンドーザ(González de Mendoza, 1545 - 1618)、グアルティエリ(Guido Guartieri, ?-?)といった、イエズス会士の著述家によるインド地域についての最新情報を駆使して、東インド地域に関する当時最良の知見をオランダに広めたことに貢献したことで高く評価されています。ゴアをはじめとした南アジア、東南アジア、中国、そして日本に関する地誌、動物、植物、産物(鉱石、香辛料、薬草など)について網羅的に記述しており、これまでポルトガルとスペインのごく限られた人々しか知ることができなかった情報を惜しげも無く披露しているだけでなく、自身の記述に一層の正確さを期すために、同時代の傑出した博物学者であったパルダヌス(Bernardus Paludanus, 1550 - 1633)に注釈を依頼し、本書の価値を比類なきものにまで高めています。

 また、「東方案内記」は、オランダにおける最初期の日本情報をもたらしたことでも大変重要な資料です。リンスホーテン自身が天正遣欧使節とゴアにおいて実際に対面していることもあって、本書では、日本に関する情報提供のために一章が割かれています。マッフェイの情報を軸にしつつも、当時のオランダの東インド進出候補地の一つでもあった日本の産品も含めて重要な情報を多数収録しており、17世紀前半におけるオランダにおける日本情報源として最大かつ最良のものとして長らく影響を及ぼしたことは、つとによく知られています。

「(前略)リンスホーテンの日本に関する記述は一貫性を欠いているとはいえ、その情報の中には一通りの初歩的な日本観が表れている。この日本観をまとめると次の通りになろう。日本は寒くて、住みにくい国であり、日本人は質素で我慢強い性質を持っている。慣習は他の民族とまったく違うため、異質な民族である。その起源は中国から流されてきた反逆者であるとされているが、慣習も言語も中国人と異なる。法がとても厳しく、礼儀を重んじる民族である。また、宝石ではなく、茶器や書画、刀を高く評価している。国制は封建的であり、君主は配下に対して絶対的な権力を持っている。イエズス会士は、日本で強い基盤を持ち、長崎という港で銀の貿易を独占している。このような日本観は、当時のイエズス会士の報告を基に形成されたものであるが、リンスホーテンはそれを概略的にオランダの読者に紹介した。
 オランダ人をアジアに導いた『東方案内記』は大きな影響力を持ち、17世紀を通じてオランダにおいてアジアに関する標準書となったことは言うまでもないが、日本に関しても、カロンの『日本大王国志』が1645年に出るまで、『東方案内記』がほとんど唯一の情報源であった。つまり17世紀前版において日本についての情報を知りたいオランダ人は、イエズス会士の記述を情報源としたリンスホーテンを参照したということになる。」
(フレデリック・クレインス『17世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、65, 66頁より)

 また、「東方案内記」に比べると(邦訳がないせいもあって)あまり知られていませんが、スペイン・ポルトガルの東インド各地への航路と拠点地の内情を暴露した第二部「ポルトガル人東方旅行記」においても、日本について詳細に言及されており、分量だけでいうと「東方案内記」を上回る紙幅が割かれています。第31章(81頁)から第42章(111頁)にわたって掲載されている日本近海航路の解説では、中国沿岸から日本各地に至る航路、平戸(Firando / Fyrando)、長崎(Langesaque)、土佐(Toca)、琉球(Lequeo) といった当時の重要な沿岸寄港地の情報と港間の航路などがかなり詳細に紹介されており、日本沿岸部の地理情報の解説としては他に類を見ない極めて充実した内容となっています。こうした情報は現代で言うところの水路誌に相当するものと思われ、当時ポルトガル・スペインの独占であったはずの海図が次第に外部に漏洩されていっていたことに鑑みると、本書と海図を組み合わせることで、後発のオランダとイギリスが大きな利益を得たであろうことは容易に想像できます。「東方案内記」が日本を含む東インド各地への憧れと航海の熱情をかき立てたのだとすれば、具体的に日本沿岸への航海のガイダンスが展開されている「ポルトガル人東方旅行記」は、こうした魅惑の地に具体的に到達するための、航海当事者にとっての極めて実用性の高い手引きとして読まれたものと思われます。

 このような重要性を有するリンスホーテンによる本書は、瞬く間に反響を呼び、オランダにおいて再版されただけでなく、すぐさま多言語への翻訳版を呼ぶことになります。それらの主要なものをまとめると下記のようになります。

① 1595、96年:初版(オランダ語)、アムステルダム刊
② 1595、96年:初版異刷(第2版)(オランダ語)、同上。
③ 1598年:英訳初版、ロンドン刊
④ 1598(-1607)年:ラテン語初版(ブリー(De Bry)によるPetits Voyagesの一部) フランクフルト刊
④A 1599年:ラテン語版、ハーグ刊
⑤ 1598(-1600)年:ドイツ語版初版(ブリー(De Bry)によるPetits Voyagesの一部) フランクフルト刊
⑥ 1604、5年:原著第3版、アムステルダム刊
⑦ 1610年:フランス語版初版、アムステルダム刊(実質フランクフルト版との2種あり) 
⑧ 1614年:原著第4版、アムステルダム刊J. E. Cloppenburchに版元変更
⑨ 1619年:フランス語訳第2版、アムステルダム刊、同上変更

 この後も原著や各国語で版を重ねていきますが、刊行から20年ほどの間だけでもこれだけ多くの版が登場しています。各版の異動、優劣についてはこれまで多くの研究蓄積がありますが、初版である①が、記述、図版の完全性において最も優れているとの評価が定まっています。③の英訳版は、日本に初めて公式に来航したセーリス(John Saris, 1579? - 1643)が航海時に携行したことで知られるなど、その影響力の大きさにおいて重要であることは間違いないとされる一方で、翻訳の際の誤りが多いことも指摘されています。またブリー父子によるラテン語版④とドイツ語版⑤は、特に前者はヨーロッパ共通言語であるラテン語に翻訳されたことによる影響力の大きさの点で高く評価されている一方で、原著記事の省略や図版精度の低さ、また上述したパルダヌスによる注釈の削除など、看過し得ない異同があることが指摘されています。この点では、同じラテン語版でもより完成度の高い④Aが他版に比して優れていると言えますが、日本におけるイエズス会の活動を批判した件が削除されている等、原著と比べると改変が見られることが指摘されています。

 フランス語版としては、④を底本としたフランス語訳初版⑦は、④を底本としているために同じ誤りがあり、原著を底本とした⑨(すなわち本書の元となった仏訳第2版)が、原則的に全ての記述と図版を原著と同じくしている信頼しうる版として評価されています。本書は、⑨の再版として1638年に刊行されたものでフランス語訳としては、第3版にあたるものです。パルダヌスの注釈を含めた全てのテキストと図版を収録しており、オランダ語初版と全く同じ忠実な翻訳版として用いることができるものです。出版社のCloppenburghは、オランダ語版第4版(1614年)以降、ならびに仏語訳第2版を出版していた出版社です。こうしたことからも、本書は原著と並んで公式版に準ずる版として、他の翻訳版とは異なる位置づけがなされていたと考えることができます。


「彼の有名な作品は『東方案内記』Itinerario(1596年、アムステルダム)であるが、これは本来、オランダ国民に対する一つの決定的且つ実用的な教科書として意図されたものであって、彼自身の経験と深い研究の成果であった。本書は三部に分かれていて、第一部はインドにおける彼自身の経験を扱うと共にこの国々について充実した描写を行なっており、第二部はスペインやポルトガルの水先案内達の手稿から翻訳したインドやアメリカに至る様々な航海情報の集成を収めているが、特に東インド諸島と中国の水域を含むマラッカ以遠の航路の詳細が豊富であって、リンスホーテンがオランダ人に対して為した最大の功績は、実にこの《水路誌》の編纂にあった。第三部はドゥアルテ・ロペス、ピエトロ・マルティーレ、オビエドそしてド・ルリから採ったアフリカやアメリカの沿岸航海案内と地理の記述から成っており、第二部と同じくオランダの航海者にとって実用性の高いものであった。さらに36の図版や図面並びに6枚の大型地図の付録によって完璧のものとなった本書を携行せずには、如何なるオランダ人船長も航海を躊躇したのである。旅行者、著作家また海外発展の鼓舞者として、リンスホーテンはルネッサンス期オランダにおける地理学上の代表的人物と言ってよい。」
(ボイス・ペンローズ / 荒尾克己訳『大航海時代–旅と発見の二世紀』筑摩書房、1985年、386頁より)

刊行当時に近い装丁と思われるが、20世紀以降のものと思われる改装が施された形跡がある。
「東方旅行記」タイトルページ。
リンスホーテンの肖像画。
「東方旅行記」序文。
「東方旅行記」目次、第26章が日本にあてられている。
「東方旅行記」は多くの見開き図版が収録されていることでも知られる。本書では全36枚のうち30枚が残存。
当時のゴアの反映を描いた見開き図として上掲図は特に有名。
東インドでのポルトガル・スペインの権勢を視覚的にも表現している。
日本について論じた第26章。17世紀オランダにおける日本情報の定型となった。
パルダヌスによる注釈は「東方旅行記」の記述の価値を高めるものとして重要だが、これが省かれてしまっている翻訳版が多い。
ヨーロッパに生息しない動物を銅版画で伝える。
東インド各地における豊富な農業生産物は多くのヨーロッパ人商人を惹きつけた。
「ポルトガル人東方旅行記」タイトルページ。内容としては旅行記というよりも、日本含む東インド海域の水路誌と言える内容。実際の航海に際しての具体的な水路情報、寄港各地の地理情報などが満載されている。オランダとイギリスの同地への航海を誘引したと言われる所以である。
「ポルトガル人東方旅行記」序文。
「ポルトガル人東方旅行記」本文冒頭箇所。
日本沿岸の航海情報は第31章から第42章にわたって掲載されており、割かれている紙幅は「東方旅行記」よりもかなり多い。
第32章冒頭箇所。
第33章冒頭箇所。
第34章冒頭箇所。
第35章冒頭箇所。
第36章冒頭箇所。
第37章冒頭箇所。
第38章冒頭箇所。
第39章冒頭箇所。
第40章冒頭箇所。
第41章冒頭箇所。
第42章冒頭箇所。
「アフリカ・アメリカ地誌」タイトルページ。
「アフリカ・アメリカ地誌」に序文はなく本文から始まる。