書籍目録

『ウィレム・スハウテンによって1615年17年にかけて成し遂げられた驚異的な航海の記録』

[スハウテン]

『ウィレム・スハウテンによって1615年17年にかけて成し遂げられた驚異的な航海の記録』

[1664年] アムステルダム刊

[Schouten, Willem]

JOURNAEL Van de Wanderlijcke Reyse gedaen door WILLEM CORNELISZ. SCHOUTEN van HOORN, in de jaren 1615. 1616. en 1617….

Amsterdam, Michiel de Groot / Gijsbert de Groot, [1664]. <AB202443>

¥880,000

4to (15.8 cm x 18.4 cm), Folded map, pp.[1(Illustrated Title.), 2], 3-48, Modern half vellum on card boards.
比較的最近に施されたと思われる装丁で良好な状態。[Tiele, Mémoire: 53]

Information

「ホーン岬」を廻る太平洋航路の発見を成し遂げた旅行に収録された奇妙な日本の人々を描いた木版画

 本書は、ウィレム・スハウテン(Willem Schouten, c.1567 - 1625)が、1615年から16年にかけて行った航海の記録を出版した作品で1664年頃の出版と推定されています。この航海記にはホーン岬を南西に向かって太平洋へと至る、それまでに道であった新発見航路のことや、彼によって成し遂げられた東南アジア周辺に関する他の多くの「発見」について記されている重要な作品であると同時に、彼らの船団が遭遇することがなかったはずの日本の人々の姿を描いた木版画がタイトルページと本文に用いられているという興味深い書物でもあります。

 1602年にオランダ東インド会社が設立されたことにより、それ以降はオランダによる東インド方面への航海は同社が独占することになっていました。このような状況を快く思っていなかったスハウテンは、同社の独占がおよばない「隙間」を狙い、また当時太平洋の南に存在すると信じられていた「未知の南方大陸」を発見することを目的として、オランダ東インド会社に所属しない形で、独自の戦隊を率いて1615年7月にオランダを出航しました。スハウテンはオランダ東インド会社がその通行を独占していたマゼラン海峡以外の太平洋に至る航路を探索し、同海峡よりも南にあるドレイク海峡に面した岬のさらに南方を経由する新航路を発見することに成功し、その岬を自身の出身地にちなんでホーン(Hoorn, ホールン)岬と名づけました。そして、スハウテンはこの新航路を開拓した後に太平洋を東へと横断して、ニューギニア東北西部のビアク諸島(彼の名にちなんでスハウテン諸島とも呼ばれる)を見つけるなど多くの発見を成し遂げながら、ついに東インドへと到達することに成功しました。スハウテンらが、オランダ東インド会社が香辛料貿易の拠点としていたマルク諸島のテルナテに到達することに成功したのは1616年9月のことです。しかしながらスハウテンが発見した航路はオランダ東インド会社にとって道の航路であったにもかかわらず、スハウテンはオランダ東インド会社の独占権を侵害したとして勾留され、また船もジャカルタで没収されるという憂き目に遭いました。このような目に遭いながらも彼は航海を続け、1617年6月に故国へと帰還しました。

「(前略)もともと航海貿易の事由を唱えるのがネーデルラントの民の伝統であったために、どうしてもオランダ東インド会社の独占貿易のシステムに満足できない人々は、会社設立後のオランダ国内にも決して少なくなかった。(中略)清ブランバント会社を1599年に設立したイザーク=ル=メールも、十七人会の一人でありながら独占貿易のあり方に不満を感じ、持ち株を売却して脱退し、フランスと共に画策してオランダ東インド会社と競争しようとした。これに失敗すると、今度は1615年に、南アメリカの南端ホーン岬を廻る新しい航路を開いて東インド会社に対抗しようとした。これは会社の特許状に「希望峰の東、マジェラン海峡の西」とある一項を盾に取って、マジェラン海峡以外の地点で太平洋に出る航海は対象外であるという解釈に基づいたものであったが、これも会社の妨害によって挫折したので、その後は正面切って会社の独占体制に挑戦するオランダ人は出なくなった。なお、ホーン岬という名はこの時の船長スハウテンの故郷の町のホールんにちなんだものといわれる。」
(永積昭『オランダ東インド会社』講談社、2000年、78, 79ページより)

 スハウテンの航海はホーン岬を回る新航路の発見をはじめとして数多くの「発見」をもたらしたため、その航海記は帰国直後の1618年にすぐさまオランダ語で刊行され、幾度も再版が繰り返されただけでなくフランス語、英語、ドイツ語、ラテン語など数多くの翻訳版も出版されるほどの大きな反響を呼びました。本書にはタイトルページにその刊行年の記載がありませんが、1664年ごろの刊行と推定されており、彼の航海記が長年にわたって読み継がれていたことを示しています。

 ただし、このようにさまざまな形で刊行されたスハウテンの旅行記はいずれもページ数も少ないパンフレットのような作品で、その形態面での脆弱性もあってか現存するものは決して多くなく、その意味では本書は貴重な現存例であると言えます。本書には冒頭にホーン岬近海とスハウテンがとった航路を示した折り込み図版が収録されていて、彼の発見の成果を地図でも伝えています。また巻末にはスハウテンらが実際に尋ねた島々の人々との交流で収集したと思われる語彙集も収録されていて、

 また、スハウテンの航海記として非常に価値ある本書の中でも特に興味深いのは、タイトルページ、ならびに本文中にも掲載されている「日本の船乗りたち」を描いた木版画の存在です。オランダ人として初めて、ヨーロッパ人として史上4番目に世界周航を成し遂げたファン・ノールトは、1602年に刊行されたその航海記に、彼らが1600年12月3日にマニラ近海を航海中に遭遇した日本船の乗員たちを描いた銅版画を収録し、この図は実際に日本の人々に遭遇したヨーロッパ人の手によって描かれ、そして刊行された最初期の「日本の人々の姿」となったことが知られています。本書に収録されている木版画、まさにこのノールトの航海記に収録されていた銅版画をモデルにしたものと推定されますが、店主の知る限り、ノールトによるこの銅版画が他の作品に転載された例はノールト自身の航海記の再版を別にすれば、ほとんど存在しないことから、非常に興味深い事例です。なぜ本書にこのような形でこの図が転載されることになったのかは不明ですが、ヨーロッパにおける「日本の人々の姿」のユニークな伝搬事例の一つではないでしょうか。

参考)ファン・ノールトの航海記に収録されていた日本の人物図。上掲の本書収録図は明らかにこの図版が原図となっているが、極めて珍しい転用例。