書籍目録

『オランダ東インド会社歴代総督と同社の歴史概論』 / 「東インド会社の現状についての考察」

デュボア / イムホフ

『オランダ東インド会社歴代総督と同社の歴史概論』 / 「東インド会社の現状についての考察」

1763年 ハーグ刊

Dubois, J.P.J. / Imhoff, Gustaaf Willem van.

VIES DES GOUVERNEURS GÉNÉRAUX, AVEC L’ABRÉGÉ DE L’HISTOIRE DES ETABLISSEMENS HOLLANDOIS AUX INDES ORIENTALES;…ORNÉ DE LEURS PORTRAITS IN VIGNETTES AU NATUREL,…

La Haye (Hague), Pierre de Hondt, M DCCC. LXIII.(1763). <AB202439>

Sold

4to (22.8 cm x 28.5 cm), Title., pp.[1, 2], 1 leaf, pp.[3], 4-351, (many folded)Maps & Plates: [34], pp.[1-3], 4-48, Contemporary full leather.
刊行当時のものと思われる製本で図版も完備しており良好な状態。小口は三方とも朱染。[NCID: BB02772209 / Landwehr VOC: 1502]

Information

日蘭貿易を含む日本関係記事や図版を収録した浩瀚なオランダ東インド会社史

 本書は、オランダ東インド会社の設立前史から1740年代に至るまでの歴史を歴代総督の時代ごとに多くの銅版画を交えて論じた作品です。1743年にオランダのハーグでフランス語で刊行された作品で、刊行当時の現在に至るまでのオランダ東インド会社の歴史が詳述されているとともに、当時すでに斜陽の時代に入りつつあった同社の現状と歴史認識が表現されている作品でもあります。また本書はオランダ東インド会社による日蘭貿易の歴史についても少なからず紙幅が割かれており、長崎の出島図を含む多数の折り込み図を収録している点に置いても大変興味深い作品であると言えます。

 本書の著者デュボア(Du Bois, J. P, J.) については、本書タイトルページに記されているポーランド王国他のオランダ大使館における私設秘書官という以上の詳細は不明ですが、プレヴォ(Antoine François Prévost d’Exiles, 1697 - 1763)が手がけた『旅行記集成』(Histoire générale des voyages,...)のハーグ偽版の執筆にも携わっていたことが分かっていて、本書はこの『旅行記集成』の補論を拡張する形で独立させて自らの名を冠して刊行したものと思われます。デュボアの手がけた本書は、比較的大きな四つ折り版で350ページを超える大部の作品で、冒頭に「オランダ東インド会社史序論」ともみなせる導入章が置かれています。以降、1609年に初代オランダ東インド会社総督に就任したピーテル・ボウス(Piter Both, 1568 - 1615)から、本書執筆当時現役であった第28代総督モセル(Jacob Mossel, 1704 - 1761)に至るまで、歴代総督ごとに区切ってオランダ東インド会社の主要な歴史を論じる構成となっています。章番号などは振られておらず、目次もありませんが、基本的に時系列に沿って記述は進められており、多くの歴代総督の肖像画も冒頭に収録されているため、関心のある年代をすぐに特定して読み進むことにもあまり不便のない作りとなっています。

 16世紀後半から急速に発展し始めたオランダの東インドへの航海活動は同席の末には複数の「会社」が乱立して互いに利益を奪い合う状況になり始めており、過当競争による自滅を恐れた関係者らによって既存の「会社」を統合して独占的な貿易会社の設立を目指す動きへと発展し、1602年について「オランダ東インド会社」(Vereenighde Oost Indische Compagnie, VOC)が設立されます。同社はオランダ政府当局による特許状によって設立された半ば国営に近い会社ではありましたが、基本的には出資者の出資によって恒久的な営利活動の維持を目的とした世界で最初の株式会社とも言われています。とはいえ、オランダ東インド会社の設立当社は同社による東インド貿易の独占に対する反発も根強く、それに対抗しようとする動きがオランダ国内でも少なからず見られたことに加え、先行する競争相手であるスペイン、ポルトガル両国との対立、そして同じ後発国として時に激しい競合関係にあったイギリスへの対処、そして経験値が非常に少ない中での東インド貿易の運営といった数多くの難題に直面しており、こうした諸課題に対して現地での迅速な意思決定と対応を可能とするために、「総督」制度を1609年に開始します。この時に初代総督に任命されたのが先述のピーテル・ボウスで、本書は歴代総督ごとに記述を進めていることから、基本的に彼が総督に就任した1609年以降の出来事が論じられています。

 ポルトガルやスペインが東インド貿易において主要な貿易品として特に重視したのは、グローブ、ナツメグ、そして胡椒といったモルッカ諸島やバンダ諸島など世界中でも特定の地域でしか産出しない香辛料であったことは非常によく知られています。これらの香辛料をめぐる貿易ルートについては、両国が同海域に進出するはるか以前から、アジア各地の商人達が形成した重層的な海上貿易ネットワークが活発に機能しており、ポルトガルはこのネットワークに参入する形で自己の貿易ルートを確立させていくことになります。ポルトガルは、このネットワークにおける要所であったマラッカ海峡の最重要地、マラッカを1511年に占領して同地を拠点とし、東インド貿易を展開していきました。こうした状況があったため、後発国のオランダとしてはポルトガルが支配するマラッカ、ならびに同海峡を避ける形で香辛料を獲得するルートを確立させることがオランダ東インド会社設立当初の最重要課題となりました。そこで、オランダ東インド会社は、スマトラ島を南東に進む形でジャワ島へと針路をとってズンダ海峡に位置するジャカルタ(バタヴィア)へと向かい、1610年に同地での通商交渉に成功してからは次第にジャカルタを拠点としていき、ポルトガル、スペイン両国を駆逐しつつ、イギリス東インド会社との競合にも精力的に対応しながら東インド貿易の独占体制を確立させていきます。

 本書ではこうしたオランダ東インド会社の初期の活動について非常に詳細に論じられており、特に「征服者クーン」と呼ばれた第4代総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen, 1587 - 1629)の時代(33ページ〜*最初の総督時代、2度目の総督時代についても後掲)を中心としてスペインからの独立を果たしオランダがその栄光の世紀を迎えることになる17世紀半ばに至るまでの出来事が高揚感を持って綴られています。また、本書には歴代総督の肖像画に加えて、数多くの地図を中心とした図版が収録されていることも大きな特徴で、ジャカルタや台湾、アンボイナといったオランダ東インド会社が重視した各地の地図や市街図といった視覚資料をふんだんに含んでいます。

 本書には当然ながら日本に関する記述も数多く含まれていて、1623年にイギリス東インド会社との勢力争いによって生じたアンボイナ事件において日本の商人が関与していたという記述(72ページ〜)や、初代平戸商館長を務め第7代総督となったスペックス(Jacques Specx, 1585 - 1652)の時代を論じた箇所では日蘭貿易のことが真っ先に言及されています(100ページ〜)。また、オランダ商館が平戸から長崎出島へと移ることになった時代に総督を務めたアントニオ・ファン・ディーメン(Antonio van Diemen, 1593 - 1645)について論じた箇所(116ページ〜)では、折込の長崎図とともに、日蘭貿易の様子について記した記事を読むことができます。本書が非常に興味深いのは、オランダ東インド会社全体の歴史を綴る中において日蘭貿易のことが論じられている点で、本書執筆当時に日蘭貿易の歴史がオランダ東インド会社全体の歴史の中でどのように位置付けられている(価値づけられている)のかが、本書では示されていると言えるでしょう。

 また、日蘭貿易だけでなく間接的に影響を与えた諸事件についてもさまざまな記述があり、例えばオランダ東インド会社が対中貿易の拠点としていた台湾のゼーランディア城が鄭成功によって陥落させられた衝撃的な事件(1661年、本書208ページ〜)も多くの紙幅を割いて論じられています。さらに1740年にバタヴィア(ジャカルタ)で起きた大規模な華僑暴動とその後に起きた華僑の大虐殺事件についても見開き図とともに紹介するなど、次第にその行末に不安な影が増大しつつあったオランダ東インド会社の状況を象徴するような事件についても記載されているのは大変興味深いことです。

 さらに本書は本編に続いて、1743年から50年にかけて総督を務めたイムホフ(Gustaaf Willem van Imhoff, 1705 - 1750)がオランダ東インド会社首脳部に1741年11月に提出したという「意見書」がページ付を改めて掲載されています。

「クーデンスに代って総督になったファン=イムホフは、転んでもただでは起きないタイプの男である。政敵に強制送還されて本国にいる間も、彼は自分の立場の弁明のみならず、「東インド会社の現状についての考察」という意見書を会社首脳部に提出している。その自信に満ちた態度のみならず、意見書の内容もまた、1世紀以上前の総督クーンによく似ている。最もクーンとイムホフの間にも、これに類する意見書は1623年、44年、47年、75年の都合4回、会社首脳部に対して提案され、1676年の条例によって、最終的に葬り去られていたものである。その趣旨はいつも同じで、貿易の自由化に関するものであった。
 ファン=イムホフの構想も、過去4回の提案とそれほど違っていたわけではない。しかし彼は過去の提案を徹底的に検討し、自分の知識や経験でそれを補うことが出来た。彼は会社の没落の原因として、
1. 会社の無駄な出費が多すぎること
2. 時代が悪くなりつつあること
を指摘した。時代が変わっていくのに昔ながらの貿易方針を守っていく愚かさを、彼は攻撃している。また第3の原因として、会社職員の勤務状態が以前ほどよくないことを彼は挙げた。
 会社の無駄な出費について彼はさらに詳しく論じ、これは会社の領土拡張政策の結果であると判断した。(中略)
 ファン=イムホフによれば、会社の欠点は証人と国家元首という2つの異質のものを無理やりくっつけたところにある。この傾向は17世紀半ばにすでに認められ、18世紀半ばにはファン=イムホフのみならず、他の識者たちの目にも明らかであった。商業会社にはこの二重の仕事を遂行する能力はない。(中略)
 だいたいこういう意味の前置きをしたのち、彼は改革案を提案する。それは、航海、貿易、領土保有、内政の4項目に分かれる。」
(永積昭『オランダ東インド会社』講談社、2000年、204-206ページより)

 このイムホフによる提案書は、本書が刊行された1763年当時にあってまさに喫緊の課題と改善策を提示していたもので、本書前半で論じられていたオランダ東インド会社創立当初から半世紀ほどの間の輝かしい時代の記述との落差を感じざるを得ないものです。

 本書はこのように18世紀後半の時点におけるオランダ東インド会社の歴代総督を軸とした「公式史」とも言える作品で、その中で日蘭貿易を中心とした日本との関係がどのように位置付けられているのか、またすでに斜陽の時代を迎えつつあった同社がどのような歴史観のもとに、将来を模索しようとしていたのかを垣間見ることができるなど、さまざまな視点から読み解くことができる非常に興味深い作品です。長崎港図をはじめとした豊富な図版を完備している貴重な作品でもある本書は、日蘭貿易史、オランダ東インド会社史の基礎資料としてさまざまな活用が期待できる書物です。

刊行当時のものと思われる革装丁で状態は良好。
タイトルページ。
序文冒頭箇所、本書出版の背景と概要が簡潔に述べられている。
本書に多数収録されている図版の解説。冒頭にあるのは後掲の長崎港図の解説。
本文冒頭箇所。「オランダ東インド会社史序論」ともみなせる導入章となっている。
1609年に初代オランダ東インド会社総督に就任したピーテル・ボウス(Piter Both, 1568 - 1615)
テルナテ島をはじめとしたモルッカ諸島の一部を描いた地図。テルナテ島はクローブ産出することのできる島としてオランダ東インド会社が重視していた島の一つ。
テルナテ島のガマラマ山。
「征服者クーン」と呼ばれた第4代総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen, 1587 - 1629)は、オランダ東インド会社の黄金時代を築いた総督の代表格。
バンダ諸島の地図。モルッカ諸島の南方のバンダ諸島はナツメグの生産地として知られ、やはりオランダ東インド会社が最重要視していた。
イギリス東インド会社と激しい争いを繰り広げたアンボン(アンボイナ)やセラム島を描いた地図。
1623年にイギリス東インド会社との勢力争いによって生じたアンボイナ事件はイギリスをこの地域から駆逐することに成功する一方で、蘭英関係の悪化を決定的なものとしたことで後年に大きな悪影響を残すことになった。
第5代総督となったカーペンティア(Pieter de Carpentier, 1586 - 1659)。冒頭でアンボイナ事件の詳細と日本商人の関与と尋問(拷問)の様子などが記されている。
クーンは第6代総督として2度にわたって総督を務め、オランダ東インド会社史に大きな足跡を残した。
初代平戸商館長を務め第7代総督となったスペックス(Jacques Specx, 1585 - 1652)の時代を論じた箇所では日蘭貿易のことが真っ先に言及されている。
オランダ商館が平戸から長崎出島へと移ることになった時代に総督を務めたアントニオ・ファン・ディーメン(Antonio van Diemen, 1593 - 1645)
マラッカ海峡の要所としてポルトガルが最大の拠点としていたマラッカを描いた図。
オランダは1641年にマラッカを陥落させ、ポルトガルから奪還することに成功した。
ファン・ディーメン相当の時代には各地への探検航海が盛んに行われた。上掲は1642年から翌年にかけて行われたタスマンによるオーストラリア北西沿岸探検航海によってもたらされた地図。
出島を中心とした長崎港図が収録されている。
上掲の折込の長崎図とともに、日蘭貿易の様子について記した記事を読むことができる。
オランダ東インド会社が最大の拠点地としたジャカルタ(バタフィア)を擁するジャワ島図。
オランダ東インド会社が対中貿易の拠点としていた台湾のゼーランディア城が鄭成功によって陥落させられた衝撃的な事件(1661年)を報じる冒頭箇所。
台湾図。ゼーランディア城の陥落はオランダ東インド会社の将来に不安な影を投げかける大事件となった。
1740年にバタヴィア(ジャカルタ)で起きた大規模な華僑暴動とその後に起きた華僑の大虐殺事件を描いた図。
当時のバタヴィア図。
1743年から50年にかけて総督を務めたイムホフ(Gustaaf Willem van Imhoff, 1705 - 1750)。彼は後掲の「意見書」をオランダ東インド会社首脳部に送り、同社の改革を熱心に訴えたことで知られる。
バタヴィア市街図。
本書執筆当時現役であった第28代総督モセル(Jacob Mossel, 1704 - 1761)。
本文末尾。
本文の最後には、本書に収録されている図版の綴込み箇所の指示書が掲載されている。
さらに本書は本編に続いて、イムホフがオランダ東インド会社首脳部に1741年11月に提出したという「意見書」がページをあらためて掲載されている。
「意見書」冒頭箇所。
「意見書」末尾。