書籍目録

『ポルトガル国インド副王親書』

サルダーニャ / 高瀬弘一郎(解題) / (豊臣秀吉)

『ポルトガル国インド副王親書』

(1588年の複製と解題本) 1995年 リスボン刊

Saldanha, António Vasconcelos de / Takase, Koichiro.

A Carta do Vice-Rei D. Duarte de Menezes a Toyotomi Hideyoshi 1588.

Lisboa(Lisbon), Chaves Ferreira, 1995. <AB202438>

Sold

51.3 cm x 54.6 cm, Booklet: Title., 1 leaf, pp.1-31, 16 leaves(unnumbered, Japanese texts), A large paper colored facsimile in a special box with an explanatory booklet.
解説ブックレットは表紙が本体から外れている状態。[NCID: BA67627128]

Information

1588年にインド福王が豊臣秀吉に当てた親書(現妙法院所蔵)の複製と解説リーフレット

ただいま解題準備中です。今しばらくお待ちくださいませ。


解説ブックレットの収録内容

①António Vasconcelos de Saldanha.
Introdução: A carta de 1588. Um Marco Histórico nas Relações Portugal-Japão.

②Takase Koichiro.
A Carta do Vice-Rei D. Duarte de Menezes a Toyotomi Fideyoxi: Perspective Nipónica.

③高瀬弘一郎
「インド副王ドゥアルデ・デ・メネゼスが豊臣秀吉に送った親書:日本側からの考察

「ヴァリニャーノは、ゴア滞在中の1585年に、秀吉がイエズス会に多大の保護をあたえたことに対し、インド副王が贈物をそえて使節を派遣するよう副王に諮られたいと要請したコエリヨの書翰を受領した。彼の求めによって、インド副王ドン・ドゥアルテ・デ・メネーゼスの秀吉宛親書が作成されたのは、1587年4月であった。少年遣欧使節はそれより遅れて5月29日にリスボンからゴアに到着した。彼が巡察師およびインド副王使節の名目で遣欧使節とともにゴア出帆したのは翌年4月23日のことであり、このため、秀吉宛副王書翰の日付は1年後に修正された(この書翰は、京都妙法院に現存し、国宝の指定をうけている)。」
「謁見の間に公家衆が列坐し、つぎの間には大名らが列した。ヴァリニャーノは、秀吉の前に進んで日本式に拝礼し、羊皮に書き認められた、周縁に彩色の模様のある副王書翰を捧呈した。これとは別に、翻訳された日本文1通がそえられた。副王の書翰は、関白秀吉の天下統一の偉業を讃え、彼のパードレに対する高恩を謝して、巡察師および諸パードレへのさらなる庇護を懇請していた。秀吉は、引見後の食前の席で伊東マンショらに言葉をかけ自分に随身するよう勧めた。彼はマンショらがヨーロッパの楽器を演奏するのを聴いて、しばしば心を和めた風情であり、ヴァリニャーノに対し、インド副王との間に厚誼をを結ぶ意向であることを表明した。彼の秀吉謁見は滞りなく終了した。」
「しかし、秀吉は追放した宣教師の復帰問題には一線を画して、ヴァリニャーノをインド副王使節として引見したにすぎなかった。このため、副王書翰の内容を知らされたとき、彼は不快を禁じることができなかったであろう。彼の副王宛返書が遅延したのは、同使節に対する疑念を払うことができなかったからであった。22日間在京してついに返書をえることができなかったヴァリニャーノは、返書を入手するようにロドリゲス修道士を督励して、3月末京都を去って長崎へ下った。」
「いずれにせよ、インド副王使節の秀吉謁見は、宣教師らの原状復帰、すなわち伴天連追放令撤廃の件では失敗に終ったけれども、秀吉がポルトガル貿易継続のために宣教師10名の長崎滞在を許したことによって、一応の成果をおさめることができた。この結果、天正15年6月発令の伴天連追放令はしだいに骨抜きされていき、イエズス会宣教師約130名は西南九州に留まって慎重な布教活動を継続することとなった。通詞のロドリゲス修道士は、これ以降秀吉の信任をえて、彼とポルトガル商人との仲介者として大坂と長崎の間を往来し、これによって、宣教師の日本滞在を既成化し恒常化させるのに成功した。」
(五野井隆史『日本キリスト教史』吉川弘文館、1990年、167-170ページより)