書籍目録

『日本の風俗と風習を日本の画家たちが描いた美術展』

[浅井忠] / [柳(高橋)源吉] / 小柴英侍 / (ビゴー)

『日本の風俗と風習を日本の画家たちが描いた美術展』

(第2版?) 1887(明治二十)年  東京刊

[Asai, Chu] / [Yanagi(Takahashi), Genkichi], Koshiba, Eiji.

A Pictorial Museum of Japanese Manners and Customs: Drawn by Japanese Artists.

Tokio(Tokyo), Koshiba Eiji, 1887. <AB202429>

¥165,000

(2nd edition?)

23.3 cm x 31.8 cm, Title., pp.[1], 2-40, Printed on folded papers, bound in Japanese style, tied. Original card board with an original illustrated title paper.
余白部に多くの虫損が見られ、一部のイラスト部分にも損傷が見られるが、概ね良好な状態。[NDLID: 000000525337]

Information

明治前期の洋風画と石版印刷導入の双方において重要な、ビゴーの影響を受けた「風俗画集」

 本書は全40枚で構成されている、市井の人々の様々な場面を描いたスケッチ集のような作品で、明治20年(1887年)に東京で刊行されたものです。これらのスケッチを描いた画家の名前は記されていませんが、明治期の洋画や図版製作の分野で大きな貢献を成した浅井忠(1856 - 1907)と柳源吉(高橋源吉とも、1858 - 1913)であることが確認されています。袋とじの和本仕立てとして、両面に石版印刷によってスケッチを印刷するという構成は、同時期に類似の作品を数多く刊行したジョルジュ・ビゴー(Georges Bigot, 1860 - 1927)の影響を強く受けていることが見て取れる大変興味深い作品です。

 また、本書の印刷を手掛けているのは、明治初期の石版印刷のパイオニアである梅村翠山の「彫刻会社」で、同社が招聘したスモリック(Ottoman Smolik)、ポラード(Charles Pollard)のもとで研鑽を積んでから独立した小柴英(1856 - 1936) の息子である小柴英侍(英二とも)で、両表紙の裏紙には両者が手がけた代表作『佳人之奇遇』のために製作された挿絵が用いられています。

 これらの点に鑑みると、明治期における洋風画と石版印刷の発展において大きな貢献を成した人物らが手がけた実験的とも言える本書は、美術史、印刷史の双方において大変重要な作品であると思われます。なお、店主は未見ではあるものの、本書には全43作品を収録する明治17年に刊行された初版が存在することが知られていますが、本書の奥付けにはそのような記載は見当たりません。


「19世紀から20世紀への世界的にも急速に銅板(凹版)から石版(平版)へと向かう時代の流れがあったのである。遅ればせながら日本もその波に翻弄されることとなったのであった。
 日本でも印刷界は期待される石版に関心が動き、原版を銅版で作り、それを石版転写して用いる技術が急激に伸びたというのも自然な成り行きであった。そして、石版の製版技術者とともに忘れてはならないことに原画を描く画家たちの必要性である。石版導入と共に、線描はもとより明暗をつけて描ける洋画家が必要となったのである。玄々堂松田緑山の許には若い洋画家たちが集まり、マツダは彼らを養護したことが伝えられている。たとえば、平木政次の『明治初期洋風画壇回顧』には明治10年代ころの玄々堂では、教科書の挿絵や一枚刷り風俗画を高橋由一、亀井至一、石井重賢などが手がけていることが記されている。この他にも、工部美術学校に籍をおいた山本芳翠・五姓田善松・中村精十郎・疋田敬蔵などをはじめ、多くの日本の初期洋風画関係者がこの石版に関わったのであった。」
(岩切信一郎『明治版画史』吉川弘文館、2009年、106, 107ページ)

「浅井が最初に手がけた教科書が、1882(明治15)年3月に高橋由一の息子である源吉とともに刊行した『習画帖』である。これはちょうど浅井が工部美術学校を自主退学してから、明治美術会を結成するまでの中間の時期に制作されたもので、様々に主題別に臨画を行い、特に人物画と風景画に重きを置いた絵画技術の上達を目標として編集されている。更に、日清戦争従軍の翌年にあたる1896年には『彩画初歩』を吉川弘文館から刊行する。明治20年代は水彩画が流行した時期であり、『彩画初歩』についても簡単な墨絵から始まり、最終的には水彩画の臨本となるような順序で編集されている。そして晩年の京都時代に刊行された『新編自在画臨本』と、没後に刊行された『訂正浅井自在画臨本』では、「自在画」の教科書でありながらもその先に「図案」の制作が意識されていることが特色として挙げられる。このように浅井の教科書制作は、日本における洋画教育の普及や、更にその先の図案教育までもを見据えた、その時々の潮流を汲み取った自身のライフワークであったと言えるだろう。
 また『A PICTORIAL MUSEUM OF JAPANESE MANNERS AND CUSTOMS』も、この時期の浅井が高橋(柳)源吉と共に制作に携わった書籍のひとつであり、外国人に向けた土産用として、日本の生活様式と習慣を描いたものであると考えられている。」

「原題を訳せば「日本の風俗・習慣の絵画美術館」となろうか。日本の風俗や習慣を絵で紹介する冊子である。浅井と、工部美術学校で同級生だった高橋源吉が分担して絵を描いている。Wrestlers(相撲取り)、A Ship(船)など枠囲いした中に線描で描いている。船の絵は浅井の作で、近似した図柄で油彩画も描いている。
 工部美術学校を退学してから6年目となる1884年の刊行である。この翌年には同じく高橋との共著で『小学習画帖』を文部省より刊行した。
 高橋とは他にも、この2年前に共著で『習画帖』4編21巻を、高橋由一を発行人に、由一が主宰する天絵学舎から刊行した。ちなみに、源吉は由一の長男である。」
(神野有紗「2-4 教科書」 / 中松れい「『A PICTORIAL MUSEUM OF JAPANESE MANNERS & CUSTOMS』1884年 書籍(袋綴21丁 18.7 x 27.0」千葉県立美術館(編)『浅井忠、あちこちに行く−むすばれる人、つながる時代−』堀内出版、2024年、32ページ / 237ページより)