書籍目録

『フランシスコ会による聖グレゴリオ・フィリピン管区の1708年までの歴史大要:第一部:フィリピン諸島とその関連地区、第二部:大中華国、コーチシナとその関連地区、第三部:日本』

マルティネス

『フランシスコ会による聖グレゴリオ・フィリピン管区の1708年までの歴史大要:第一部:フィリピン諸島とその関連地区、第二部:大中華国、コーチシナとその関連地区、第三部:日本』

1756年 マドリッド刊

Martinez, Domingo.

COMPENDIO HISTORICO, DE LA APOSTOLICA PROVINCIA DE SAN GREGORIO DE PHILIPINAS, DE RELIGIOSOS MENORES DESCALZOS DE N. P. SAN FRANCISCO…hasta los años del Señor de mil setecientos y ocho. DIVIDESE, PARA MAYOR CLARIDAD, EN TRES LIBROS. EN PRIMERO COMPENDIA T

Madrid, (Con Licencia) Viuda de Manuel Fernandez / Supremo Cosfejo de la Inquisicion, M.DCC.LVI.(1756). <AB2022128>

Sold

Large 4to (20.8 cm x 30.0 cm), Title., 13 leaves, pp.1-342, 1-116, 1-236, 237-248, Contemporary parchment.
本体と製本の綴じが外れてしまっている状態で要修復。全体にわたって虫食いによる損傷が見られるが、欠落している紙葉はなく解読に致命的な損傷はない状態。[Laures: JL-1756-1-631-428]

Information

日西関係から見たもう一つの『日本誌』

 本書は、フランシスコ会によるアジア宣教をになっていた、聖グレゴリオ管区における最初期から18世紀冒頭に至るまでの活動の歴史を綴った作品です。フォリオ判に近い大型の書物で全700ページを超える大部の作品ですが、全三部構成のうち、第三部が全て日本の記述に当てられているという、日本関係欧文図書として非常に重要な作品です。18世紀ヨーロッパにおける日本情報は、ケンペル『日本誌』の圧倒的な影響のもとにあったことが知られていますが、本書第三部はケンペルとは異なるカソリックの立場、しかも日本宣教において常に主導的立場にあったポルトガルを拠点としたイエズス会ではなく、後発であったスペインを拠点としたフランシスコ会の立場から描かれており、日西関係から見たいわばもう一つの『日本誌』ともいうべき大変ユニークな記述となっています。

 フランシスコ会は本書に先立って、サン・アントニオ(Juan Francisco de San Antonio, 1682 - 1744)が手がけた1738年から1744年にかけて全3巻からなる聖グレゴリオ管区の年代記(San Antonio, Juan FranciscoChronicas de. Chronicas de la apostolica provincia de S. Gregorio de religiosos descalzos de N.S.P.S. Francisco en las Islas Philipinas, China, Japon,… 3 vols. Sampaloc, 1738-1744.)を刊行していましたが、より一般の読者に親しみやすい1冊の書物としても同種の作品を刊行することを計画し、本書が刊行されることになりました。本書の著者であるマルティネス(Domingo Martinez)は、同書を参考にしつつも、全面的に記述を改め全3巻で構成されていた同書の内容を1冊にまとめ上げる形で本書を執筆しています。とはいえ、本書は大判で700ページ以上に及ぶという、かなりの大作でその記述は「大要(Compendio)」と呼ぶのが憚れるほど非常に充実したものとなっています。本書はそのタイトルで説明されているようで、全三部で構成されており、第一部が聖グレゴリオ管区の中心であったフィリピンとその周辺地域を、第二部が中国やインドシナとその周辺地域を、そして第三部が日本を対象として論じる内容となっています。この構成は先述のサン・アントニオの著作の構成に倣ったもので、それぞれの部は独立したページ付けがなされており、単独の記述としても完結するような内容となっています。

 日本についての記述は、第一部や第二部においてもそれぞれの地域に関係する形で言及されている箇所を散見することができますが、その中心であるのはいうまでもなく第三部です。第三部は230ページを超えるという、第一部に次ぐ紙幅が割かれており、日本におけるフランシスコ会の活動開始から、禁教政策の激化によって活動が途絶するまでの記録が全86章構成で詳細に論じられています。

 第三部前半(第46章まで)はマニラを拠点としたフランシスコ会の日本宣教の始まりから1597年に生じたいわゆる日本二十六聖人殉教事件までを扱っています。前半部は、ペドロ・バウティスタの活動を中心としており、彼がフィリピン総督の外交使節として日本に派遣され、秀吉との謁見を経て京都での活動を開始していく様子が時系列に沿って描かれています。秀吉のフィリピン総督に対する非常に好戦的で挑発的な外交書簡の扱いと対応を巡ってフィリピン側が苦心する中で外交使節として派遣されたバウティスタは秀吉との謁見を上首尾に終え、京都での滞在許可を得たことから同地での活動を開始し、初期の日西関係とフランシスコ会の日本における活動の双方において主要な役割を果たすことになりました。本書前半ではこの間の経緯と京都や長崎におけるフランシスコ会の活動の記録が詳細に論じられています。しかし、こうしたバウティスタらの積極的な宣教活動は、1597年に土佐に漂着したマニラ発のスペイン船、サン・フェリペ号が契機となった殉教事件、いわゆる日本二十六聖人殉教事件によって悲劇的な経過を辿ることになりますが、この事件最大の当事者であったフランシスコ会の歴史書である本書では、かなりの紙幅を割いてこの事件を取り扱っており、事件の経緯と推移、殉教に至るまでの道のり、殉教者それぞれのプロフィールなど、多方面から事件のことが論じられています。この事件では、パウロ三木ら三人のイエズス会関係者であった日本の信徒も犠牲となりましたが、本書では彼らのことについても同様に扱っていることも興味深い点です。

 第三部後半(第47章から)は、秀吉の命によって生じた同事件によるフランシスコ会を媒介とした日西関係の悪化の転機となった使節ジェロニモ(ヘロニモ)の来日から記事が始まっており、秀吉没後に日本の権力を掌握することになった家康(内府様)との謁見以降に、再び活性化するフランシスコ会の活動と日西関係を軸とした日本社会の状況が論じられています。ジェロニモは1594年に来日して以来、バウティスタを中心としたフランシスコ会による最初期の日本宣教活動に加わっていた人物で、先の殉教事件勃発当時は長崎から京都に向けての移動中であったために捕縛を免れ、1598年にマニラへと追放されましたが、同年中に再び日本へと渡り、秀吉没後に五大老の中心人物となった家康と面会を果たすことに成功、マニラ、メキシコ貿易の発展を模索していた家康から江戸での滞在を許可されることになりました。殉教事件で多くの関係者が犠牲となり、壊滅的な打撃を被っていたフランシスコ会は、日本国内の政治状況の変化に呼応する形で、ジェロニモによって日本での活動を再開していくことができるようになります。家康はフィリピンを軸とした日西関係の修復を試みて、ジェロニモを特使としてマニラに派遣しており、こうした日西両国による流転に満ちた外交交渉についても本書では解説されています。

 また、本書後半ではルイス・ソテロが主導した伊達政宗の遣欧使節の派遣(慶長遣欧使節)についての記述ももちろん含まれています。一時的に再活性化した日西交流とフランシスコ会の日本における活動は、幕府による禁教政策が次第に厳しくなっていくにつれて芳しくないものとなっていきますが、本書はこうしたキリシタン弾圧政策が取られることになった背景も論じられており(第54章)、本書における記述は、次々に生じた殉教事件についての記録が中心となっていきます。ただし、本書後半はいわゆる「殉教録」に特化した内容ではなく、危機の中にあっても関係継続を試みて派遣された両国使節の動向や、大坂の陣の勃発とその背景といった当時の社会、政治状況についての興味深い記述も多分に含まれています。第三部の記述は1632年から1634年に日本各地で生じた出来事を報ずる記事で締めくくられており、フランシスコ会がこの時期をもって同会の日本における活動が停止したこと、すなわち日西関係が途絶するに至ったとみなしていることが窺えます。

 本書はヨーロッパで見つかる書物としては珍しく、至る所に虫食い穴が見られるというあまり良好とはいえない状態ではありますが、幸い本体は一葉も欠けることなく残されており、本書に収録されている興味深い記述を十分読み解くことができる状態にあります。18世紀ヨーロッパにおける日本情報は、ケンペル『日本誌』を中心として、当時唯一交易を許されていたオランダ発の情報が圧倒的な影響力を持っていたと考えられますが、本書はその中にあってスペインを拠点としていたフランシスコ会の視点から描かれたという大変ユニークな日本関係欧文図書と言えます。その影響力はケンペル『日本誌』には遠く及ばなかったとしても、上述のサン・アントニオの大部の著作をより多くの読者に届けようとして刊行された「普及版」である本書は、スペイン語圏の読者の日本観形成に少なくない影響を与えたのではないかと思われます。