書籍目録

『模範とすべき日本の殉教者、アセンシオンの驚くべき生涯』

アルカラ / (日本二十六聖人殉教事件)

『模範とすべき日本の殉教者、アセンシオンの驚くべき生涯』

1739年 マドリッド刊

Alcara, Marcos de.

VIDA MARAVILLOSA DE SAN MARTIN DE LA ASCENSION, Y A GUIRRE, PROTO-MARTYR DEL JAPON,...

Madrid, Manuel Fernandez, M.DC.XXXIX.(1739). <AB202215>

Sold

4to (13.5 cm x 19.0 cm), Title., 55 leaves,Front., pp.1-182, LACKING pp.183-pp.186(2 leaves), pp.187-312, 8 leaves(Indice & Tabla), Later(19th century?) one quarter red leather binding on marble boards.
183ページから186ページに該当する2葉が破り取られており欠損しているが、それ以外は良好な状態。[Laures: JL-1739-KB1-616-419]

Information

数多くの資料を駆使して執筆された事件関係者の伝記

 本書は、いわゆる「二十六聖人殉教事件」において犠牲となったアセンシオン(Martín de la Ascensión, 1566? - 1597)の伝記で、殉教を遂げることになった日本での布教活動と殉教前後の出来事について、数多くの典拠資料を駆使しながら詳細に記していることから、日本関係欧文史料としても非常に重要な文献です。

 アッセンシオンはフランシスコ会士としてフィリピンでの精力的な布教活動を経て、1596年に日本へと向かいました。この時期は秀吉によるバテレン追放令後は公然とした布教活動を控えていたイエズス会と、同追放令はイエズス会を対象としたもので自らは秀吉による布教活動の公認を得ているとして精力的な布教活動を行なっていたフランシスコ会との対立が深まりつつある時期でした。また、秀吉とフィリピンとの交渉も難航し、緊張感が極めて高まっていた時期でもありました。こうした時期にマニラからメキシコに向けて出航したサン・フェリペ号が日本近海で難波し、土佐に漂着するという事件が生じます。このサン・フェリペ号にはメキシコに帰国を予定していたフランシスコ会士らも同船しており、関係者の様々な思惑とともに秀吉に伝えられたことで、秀吉はこの間交渉を続けていたスペインが宣教師を派遣することを皮切りにして日本征服を企んでいるものと結論づけ、日本に滞在していたフランシスコ会士の処刑を命じるに至りました。これにより、アセンシオンを含むフランシスコ会士6名ら26名が長崎に送られて処刑されるという「二十六聖人聖人殉教事件」が引き起こされることになりました。

 本書では、この事件で犠牲となったアセンシオンの生涯と、その後の彼と事件をめぐるヨーロッパにおける考証や議論の進展が、数多くの史料を用いながら記されています。あくまで(当時)「福者アセンシオン」を顕彰することを企図した作品であることから、著者の資料選択や解釈には注意を要するとは言え、著者アルカラはテキストを綴るに際しては、その記述の典拠となる資料を可能な限り明示しようと努めており、できる限り資料に裏付けられた記述となるよう心がけているのが伺えます。こうしたことから、本書はその記事内容だけでなく、著者によって随時明記されている典拠資料情報も含めて大変興味深い内容となっています。

 本書は、冒頭の献辞や推薦文、出版許可文、参考文献・史料一覧、序文などからなる非常に長い前書きに始まり、アセンシオンの殉教の場面を象徴的に描いた口絵銅版画を挟んで、二部から構成される本文テキストが収録されています。第一部では、アセンシオンの生涯をたどりながら、彼が遭遇した様々な出来事や事件、事蹟などが全15章で描かれています。ここで主なハイライトとなっているのは、当然日本での勢力的な布教活動と殉教事件で、第10章(100頁〜)以降の記述はほぼこれらの出来事を記すために当てられています。ここには、アセンシオンが認めた様々な書簡や事件関係者の証言や書簡といった、重要な関連史料も豊富に収録されており、単にアセンシオンの生涯についての情報を得られるだけでなく、事件の関連史料としても用いることができます。また、こうした本書の叙述方針は、著者が本書執筆にあたって数多くの史料を用いながら(フランシスコ会の立場という制約があるにせよ)立体的な記述に努めようとしたことが伺えます。また、事件から30年後の1627年にアセンシオンを含む殉教者26人は、福者としてウルヴァノ8世によって列福されていますが、本書にはその際の祝辞なども引用して掲載されていて、事件までの経過だけでなく、その後ヨーロッパにおいて事件がどのように受け止められ、評価されたかについても時系列に沿って知ることができるようになっています。

 第二部は、アセンシオンの出生と生涯に関する史料や証言など、重要な事実関係を証する史料を整理したもので全10章で構成されています。これらの記述は、彼の出生地や事績を巡って当時疑念を持つ者や議論が少なからずあったことや、彼の列福過程においてこうした疑義を払拭するために数多くの証言が集められていたことが反映されているものと思われますが、結果的にここの第二部おいても、日本におけるアセンシオンの活動を目撃した人物らによる証言、という形で多くの日本関係記事を読むことができる構成となっています。アセンシオンは、来日以前のマニラ滞在期に日本におけるイエズス会の布教活動を非常に厳しく批判する文書を作成してローマに送り、これに対してイエズス会のヴァリニャーノが強く反発するといった紛争を起こしたことでも知られていますが、彼の評価を巡っては、複雑な事実関係の問題だけでなく、それぞれの立脚点の違いによっても解釈が大きく変わるところがあったのではないかと思われるだけに、これらの第二部の記述も大変興味深いものと言えるでしょう。

「フランシスコ会が日本での宣教活動を開始したのは1582年、約三十年ほどイエズス会に遅れることになりますが、本格的な布教はペドロ・バウティスタが1593年に来日してからのことでした。バウティスタにつづいてリバデネイラらも来日し、1596年六月に長崎に到着したアッセンシオン・デ・アギーレとフランシスコ・ブランコの二人も加わっています。アッセンシオンは大阪へ、ブランコは京都へとそれぞれ赴任したのもつかのま、サン・フェリペ号の遭難に端を発するキリシタン迫害に巻き込まれて行きました。
 イエズス会の宣教師は釈放されたものの、フランシスコ会の彼らは二十四人の信者らとともに1597年二月五日、礫刑に処せられました。日本の最高権力者による最初の殉教となったこの事件がヨーロッパで公表されたのは1598年、フランチェスコ会のフィリピン管区長、フランシスコ・テロ・デ・グスマンの報告書が出版されたのが最初であり、その後フロイスの1597年三月十五日付け書簡が1599年に、また1601年にサン・ホセ・デ・ロス・デスカルソス管区(スペイン・カスティーリャ)の管区長ホアン・デ・サンタ・マリアの報告が続きます。
 著者アルカラは本書に先立って、フランチェスコ会のサン・ホセ管区についての浩瀚な年代記を執筆(1736年)し、サン・ホセとつながりの深かったサン・グレゴリオ管区(フィリピン)に関しても姉妹篇として同様の年代記を1738年から1744年にかけて発表しました。このような経緯のうえで編まれたアッセンシオンの伝記は、豊かな史料に裏付けられた文献です。」
(「31. アルカラ 『アッセンシオン伝』 1739年」放送大学附属図書館HP「放送大学附属図書館所蔵日本関係コレクション展示会:西洋の日本観」より)