書籍目録

「アジア図:最も精巧で最も正確な洞察に沿って描かれたあらゆる帝国、地域、国家」

ゾイッター

「アジア図:最も精巧で最も正確な洞察に沿って描かれたあらゆる帝国、地域、国家」

[1740年頃] アウグスブルク刊

Seutter, Matthäus.

ASIA CUM OMNIBUS IMPERIIS PROVINCIIS, STATIBUS ET INSULIS LUXTA OBSERVATIONES RECENTISSIMAS ET ACCURATISSIMAS CORRECTA ET ADORNATA….

Augsburg, Vindel, [c1740]. <AB20211708>

Sold

1 contemporary colored map, 51.7 cm x 59.4 cm,

Information

当時ヨーロッパで混乱状態にあった蝦夷近辺に関する地理情報を苦心しながら独自に解釈して描いた興味深いアジア図

 本図は、18世紀半ばにアウグスブルクで活躍していた地図製作者であるゾイッター(Matthäus Seutter, 1678 - 1757)によるアジア図です。日本を含む、当時のヨーロッパにおいてアジアとみなされていた広範に渡る地域が描かれていて、地図内に細かな字で地名だけでなく、時には解説までもが書き込まれており、豊富な情報をもたらしてくれる当時最新のアジア図といえる作品です。中でも興味深いのは、「蝦夷大陸(Terra Yedso)」に書き込まれたテキストや地名、そしてその歪な輪郭で、豊富な情報がもたらされているにもかかわらずこの地域の正確な地理理解が却って混乱に陥っていたことを示しています。

 本図に見られるような北西部が大きく盛り上がった「蝦夷大陸」が描かれるようになったのは、1700年にミュンヘンで刊行されたシェーラー(Heinrich Scherer, 1628 - 1704)のアジア図(Asiae Status Naturalis…)で、この地図では、蝦夷南端が本州北端と接続して描かれている点も本図の特徴によく似ています。ヨーロッパ人による蝦夷近辺の探索航海は、オランダ人航海士フリース(Maerten Gerritsz de Vries, 1589 - 1647)による1643年の調査が最初であると考えられていて、フリースの航海によって、それまで未知とされていた蝦夷北東部の測量情報がもたらされ、現在の択捉島と得撫島の(一部の)確認ならびに両地のオランダ東インド会社とオランダ国家による領有宣言などが行われました。この情報に基づいて蝦夷近辺を描いた地図が17世紀後半から出現するようになり、シェーラーによるアジア図もこうした系譜に連なるものですが、それまでに製作された地図に描かれた蝦夷の輪郭からはかなり逸脱しており、本州と蝦夷を接続して、フリースが測量できなかった北西部を大きく盛り上げて得撫島とほぼ隣り合わせに描くなど、独自の作図を行いました。

 シェーラーによるアジア図は人気を博したようで、これに続くドイツ語圏のアジア図にも影響を与えることになりましたが、1710年ごろにニュルンベルクで作成されたと思われるホーマン(Johann Baptist Homann, 1663 - 1724)のアジア図(Asiae Recentissima Delineatio…)は、あらためて蝦夷を描き直し、北西部の輪郭はフリースの測量に沿った形状に戻す一方、盛り上がった北西部については、その形状をやや改めつつ踏襲しながらも、この近辺の地理情報が乏しく、また混乱していることを明記しました。この頃にヨーロッパで製作された地図における蝦夷近辺の描き方は著しく混乱しており、同じホーマンによるアジア図でもより後年のものと思われる作品では大きな変更が加えられていて、蝦夷そのものがほとんど消失して千島列島の一部となり、大きく描かれた樺太と得撫島の南部に位置する群島のようになってしまっているほどです。蝦夷近辺の地理情報が錯綜する中で、ヨーロッパの地図製作者はそれぞれが選択した情報源に基づいてこの地域を描き、また新しい情報がもたらされると頻繁にこれを改訂しました。そのため、当時のヨーロッパ製地図におけるこの近辺の描き方は実に多彩な様相を呈しています。

 本図に見られる特徴的な蝦夷の描き方は、こうした当時の状況を反映したものですが、地図全般にわたって細かな地名が書き込まれていることが特徴的な地図だけあって、蝦夷についても松前「(Matsumai)」をはじめとして具体的な地名を明記しています。また、蝦夷の内陸にはテキストで、「近年の地理学者の洞察によると、蝦夷と日本とは共に繋がっている(とのことである)」と言う趣旨の内容が書き込まれています。蝦夷と本州とが地続きであると解釈するのは、先に述べたように既にシェーラーのアジア図においてなされており、本図もその解釈に倣ったものと思われます。本図とほぼ同年代の製作と見られるチュルネリ(Adam Friedrich Zürneri, 1679 - 1742)によるアジア図(Asiae in tabula geographica delineatio)は、本図と同じように蝦夷の内部にテキストがあり、そこには「シェーラー氏によると蝦夷と日本は共に繋がっている(とのことである)」と言うよく似た内容の文言が記されています。このことから、両図において本州と蝦夷とを接続されているように描く典拠となったのは、ほぼ間違いなくシェーラーの影響によるものであると考えられます。

 その一方で、本図における蝦夷北東部の描き方はシェーラーには依らず、フリースによる測量結果を反映させた輪郭に描かれていて、この点では先に述べたホーマンの初期のアジア図と同様の解釈をとっていることがわかります。この点は、先に挙げたチュルネリのアジア図でも同様に見られますが、本図はさらに蝦夷の北方におけるアメリカ大陸とユーラシア大陸の関係や、フリースが「オランダ東インド会社の土地」と名づけた巨大な得撫島近辺の情報についても自身の解釈を述べた文言を書き込んでいて、チュルネリとは異なる情報源をゾイッターが参照していたことをうかがわせています。チュルネリによるアジア図とゾイッターによる本図とは、製作年代も近接しているとみなされていて、その描き方も一見したところ非常によく似ていますが、このように細部を具に見ていくと、それぞれが異なる情報源に基づいていると思われる箇所が少なくないことがわかります。両図に見られるような、よく似ているように見受けられるが、細かく見てみると違いが多い、という特徴は、当時のヨーロッパにおける多くの地図に見られるものですが、その違いが単なる誤りや欠落によるものではなく、2つの図が異なる情報を掲載している場合には、その背景にそれぞれの地図製作者が異なる情報源を参照していたことを示唆しているため注意が必要です。こうした細かな違いは、蝦夷近辺に関する(断片的であったり、推測に基づくものであっても)多彩な情報が、却って地図製作者の解釈の多様性を生み、さまざまな「蝦夷図」を生み出すことになったという、当時のヨーロッパにおける、蝦夷や日本北部の地理情報に関する混乱ぶりを表していると同時に、当時の地図製作者が少しでも正確な地図を製作できるよう独自の情報源を入手しようと苦心していたことをうかがわせます。

 ゾイッターは、単独の日本図も製作するなど生涯を通じて精力的に地図製作に携わり、「1731年もしくは1732年までには正当な評価を受けるようになり、ドイツ皇帝カール6世から宮廷地理学者の称号を与えられ」(ジェイソン・ハバード / 日暮雅道訳『世界の中の日本地図:16世紀〜18世紀 西洋の日本の地図に見る日本』柏書房、2018年、351頁)たと言われるように、当時のヨーロッパを代表する地図製作者でした。当時から多くの部数が刊行されたと思われることから、今でも彼が手がけた多くの作品を見ることができ、本図もそれほど入手が困難ではありませんが、それゆえに見逃されがちなことも多く、特に本図のような、単独の日本図でないアジア図は特にそうではないかと思われます。当時のヨーロッパにおける蝦夷近辺の地理情報をめぐる混乱と苦心を伝える興味深い図として、本図はあらためて詳細な検証を行う価値がある作品と言えるでしょう。