書籍目録

『東洋の園芸師』

マイスター

『東洋の園芸師』

(最終刷?)  1731年  ドレスデン / ライプチヒ刊

Meister, George.

Der Orientalisch=Indianische Kunst= und Lust=Gärtner, Das ist: Eine aufrichtige Beschreibung derer meisten Indianischen, als auf Java Major, Malacca und Jappon,...

Dresden / Leipzig,  Christoph Hekel, 1731. <AB202173>

In Preparation

(Last issue?)

4to (15.0 cm x 20.0 cm), Front., Title., 2 leaves(dedication), Front., 6 leaves, pp.[1], 2-106, (LACKING pp.107-110), 111-118, 116[i.e.119], 120-152, [153], 154-186, 287[i.e.187], 188-200, 102[i.e.201], 202-206, 270[i.e.207], 208-250,(LACKING pp.251-254), 255-310, 5 leaves(regis, Contemporary or slightly later black card boards.
107ー110(バタヴィアの植物解説記事)、251-254頁相当箇所(南アフリカ研究記事)が欠落。同箇所にあったと思われる数枚の図版も欠落か。日本関係記事については図版、記事ともに完備。製本の綴じに緩みが見られ、背表紙付近に紙テープによる応急処置跡あり。見返し二遍による書き込みと、本文中に近年の読者によるものと思われる鉛筆での書き込みあり。小口は三方とも赤く染められている。

Information

「東洋の園芸師」と呼ばれた著者によるユニークな日本やバタヴィアを中心とした地域研究

 マイスター(Georg Meister, 1653 - 1713)は、ドイツのテューリンゲン出身の園芸師で、東インド会社の庭園技師として、2度に渡って(1683−84年、1685−86年)オランダ商館長を務めた優れた植物学者クライアー(Andreas Cleyer, 1634 - 1697)とともに日本を訪れました。本書は、マイスターが滞在先で見聞した人々や文化について、そして何より収集、研究を行なった数多くの植物についてまとめたもので、ヨーロッパに日本の植物を体系的に紹介した最初の文献と言われています。マイスターは、語学の才にも秀でていたようで、本書には彼が耳にした日本語を頼りに構成した日本語の対話篇(日独対訳)や、漢字、仮名文字も収録しています。初版は1692年にドレスデンで刊行され、その後数度にわたって増刷されるほどの人気を博しており、本書は恐らく最後の増刷と思われるもので、1731年に刊行されています。1692年の初刷から内容、挿絵、組版に変更はほとんど見られず、ほぼ同一のようです。日本研究で著名なケンペルやツンベルク、シーボルトなどに比べて、マイスターの認知度は相対的に著しく低いですが、17世紀末というかなり早い段階で実際に日本を訪れた西洋人による本格的な日本研究を行なった人物としての重要性は極めて高いものと言えます。

 マイスターが強い関心を抱いた植物というのは、単に彼個人の興味だけによるものではなく、当時のヨーロッパにとって、マイスターが訪れた地域の様々な植物は、食料品、医薬品、嗜好品、学問研究の素材として極めて重要な産品であったため、これらに関する最新で正確な知識というものが渇望される社会的背景がありました。マイスターの上司となったクライアーは、バタヴィアにおけるオランダ東インド会社の最上層部にあった高官で、同時に当地の植物に強い関心を寄せ自身で収集、研究を熱心に行なっていましたが、一介の船員に過ぎなかったマイスターの才能を見抜き、バタヴィアでのクライアーの薬草園の庭園責任者として採用し、このことが本書誕生のきっかけとなりました。クライアーは、ベルリンのプロイセン王室図書室の責任者にして博物学者であったメンツェル(Christian Mentzel, 1622 - 1701)と文通によって、日本の植物を数度にわたって『ゲルマン医理学アカデミー論集(MISCELLANEA CURIOSA SIVE EPHEMERIDUM MEDICO-PHYSICARUM GERMANICARUM ACADEMIAE NATURAE CURIOSORUM…)に紹介し続けたほか、600枚近くに上る日本の植物画の収集を行い、それらをフリードリヒ3世に献呈しており、これらは今もベルリン国立図書館に保管されています。自身がバタヴィアを離れることがなかったクライアーのこうした勢力的な活動を可能にしたのは、帰国してからも協力し続けたマイスターによるところが非常に大きく、その意味で、クライアーと本書を著したマイスターは、西洋人による日本の植物の本格的研究の端緒を開いた二人ということができるでしょう。

 こうした背景を有する本書は、本文全22章で構成されていて、マイスターがアムステルダムを出発して、希望峰、バタヴィア、そして日本を訪れた際の記録を概ね時系列に沿って記すものとなっています。冒頭の印象的な口絵は、日本と中国の人物を描いたと思われる二人の人物が、本書のタイトルとマイスターの名を記したローブを手にしています。その足元には本文中でも扱われるアフリカ南部沿岸地域やバタヴィア周辺の豊かな果実類が描かれていて、人物の背後には二艘のジャンク船が行き交う内海に日が昇る様子が描かれています。また、マイスター自身の所蔵画も収録されていて、彼の右には椿の花が花瓶に生けられています。続く序文では、マイスターが本書を著すことになった経緯や、彼が植物栽培と園芸に強い関心を持つに至った背景やその意義などが述べられています。マイスターは、ヨーロッパでは見ることのできない美しい植物や果実、自然の営みというものは、世界の創造主たる神の御業を何よりも示すものであり、それらを栽培育成するための優れた技術の習得に励むことは、神の御心にかなうものであるという趣旨のことも述べており、彼の植物研究の背景にあるプロテスタント的な強い信仰心の存在をここに見て取ることができます(後掲カウテルト論文参照)。

 第1章から第4章までは、序論とアムステルダムを発ってから現在の南アフリカについての記事で、第5章から第9章までがクライアーの勤務地でオランダ東インド会社の拠点のあったバタヴィアでの見聞を記した記事となっています。このバタヴィアについての記事では、オランダ東インド会社における統治体制、現地の政治状況、文化、宗教事情、上司のクライアーとのやりとりなどが記されていて、17世紀前半のバタヴィアを中心としたオランダ東インド会社による「東洋研究」の当時最新の成果の一端ということができるでしょう。もちろん、マイスターの力点は、植物や樹木の研究に主眼が置かれていて、第7章(48頁〜)ではココナッツについて、第8章(70頁〜)・第9章では、当地の樹木や植物について図版を複数交えながら個別の名称を挙げて解説を加えています。ここではすでに日本に関係する記事も混じっており、例えば樟脳(Camphora)を紹介した記事では、「日本語では「くすのき(Cusnocy)」と呼ばれている」(78頁)などという形で、日本語での名称を合わせて紹介する記事も見られます。

 日本についての本格的な記述が始まる第10章(129頁〜)は、まず日本についての概略を述べることから始まっていて、日本が異教の国である一方で、その学問、芸術、文化、政治機構についてはヨーロッパとなんら遜色のない高い水準にあることや、長崎(Nange Säqui)と出島の様子、オランダ東インド会社との関係などが、かなり詳細に論じられています。また、彼が耳にした非常に厳しいキリスト教の弾圧や過酷な刑罰は、マイスターに強い影響を与えたようで、これらについても個別に記しています。これらの記述は、マイスターが実際に見聞したことに基づいて書かれており、17世紀後半に日本を実際に訪れた外国人による日本社会研究として、非常に高い学術的価値が認められると思われるものです。

 こうした日本(長崎)についての概説の後に、日本に固有の植物について、それぞれの植物名を挙げながら解説があります。ここではおよそ90近い植物が紹介されていて、その数の多さに驚かされますが、さらに注目すべきことに、マイスターは彼が耳にし得た当時の日本語での呼称をそのままローマ字に転記して、植物の名前を記しています。例えば、冒頭に取り上げられている植物には Schootitzu とありますが、これはソテツのことを指しています。クライアーのローマ字転記の方法は、当時の日本語(九州長崎地方の言葉)が現代語と異なるということもありますが、かなり独特のもので解読には苦労が伴うものの、一見して容易にわかるものも数多く見受けられます。他にも、Cottemarequa(コデマリ花)、Sarnomery(サルなめり=百日紅)、Dannivvatasch(タニワタシ)、Zuwacky(ツバキ)、Kutzschinesnoky(クチナシの木)、Schinkykoë(春菊)、Tzischin(水仙)、Schrogury(白ユリ)、Asangau(朝顔)、Nyschin(人参)、Schobu(菖蒲)、Micang(ミカン)、Kinkang(キンカン)、Curry(栗)など、現在でも比較的すぐにわかる植物が多数見受けられます。マイスターによる日本語の音表記をそのまま用いる命名法は、クライアーとも交流のあったケンペルにも影響を与えたと言われています。

 第11章(182頁〜)では、長崎近郊で彼が目にすることができた庭園についての考察となっており、日本様式と中国様式のそれとを明確に分類しながら、自然美を過度に人工的に手を加えることなく再現する、当時の日本庭園の素晴らしを絶賛しています。マイスターは、帰国後の1682年に完成したヴェルサイユ宮殿に象徴される高度な幾何学構成を用いた当時最新のヨーロッパ庭園の様式を非常に嫌っていたと言われており、マイスターにとって神の御業であった自然の風景をそのまま生かして構成する日本庭園を対照的に高く評価しています(後掲カウテルト論文参照)。

 第12章(184頁〜)は、マイスターによる日本語研究で、アルファベット順に語彙を彼が聞き取った発音で列記しています。ここでも解読が困難な単語が多く見受けられるのですが、Bambus / Taky(竹)、Blumen / Fanna(花)、brechen / Jabrimesh (破ります)、Camphor / Cusnocy(クスノキ)、Gesehen haben / Mimasta(見ました)、Haar / Camy(髪)、Ich(Ego) / VVataxi(わたし)、Katze / Neko(猫)、Lachen / VVarrimascho(笑いましょう)、Oberhaupt der Holland / Kapadaein samt Hollande(オランダカピタン様)等々、数多くの日本の言葉を聞き取って、比較的正確にその意味を記していることは、むしろ驚くべきことと言えましょう。マイスターは日本語解説のために2枚の折り込み図版を本書に収録しており、そこには「いろはにほへと」を記した仮名文字の一覧とその読み、1から20までの漢数字とその読みをはじめとした多くの漢字が掲載されています。

 第13章(193頁〜)も同じくマイスターによる日本語研究の大変ユニークなもので、日本の二人の人物、Ginnemon(銀右衛門?)と、Susabro(寿三郎?)の会話編ともう一つの会話編と二つの会話編が掲載されています。ここでもドイツ語と彼が聞き取った日本語とが併記されていて、珍しい植物を買いに出かける二人の会話が再現されています。例えば、最初の文章では Guten Tag mein herr Ginnemon. / Jevi degusserrimesch Ginnemon(よい日でござります、銀右衛門)とあります。会話の内容自体も大変興味深いものであると同時に、当時の長崎で用いられていた言葉を知ることができる貴重な資料にもなっています。マイスターによるこれらの日本語研究は、カソリック宣教師によるものを除けば、鎖国時代における日本語研究の先駆的なものと思われます。

 続く第14章(197頁〜)は、1685年から87年にかけての日本訪問でマイスターが見聞したことや、彼による日本論が述べられていて、先述したように、日本が宗教的問題点を抱えていることを非難する一方で、洗練された高い文化水準を有していること称賛しています。第15章(203頁〜)はマレー語の会話編となっていて、日本についての記述を離れますが、マイスターの文化順応力と言語能力を推し量ることができるものです。また、ここではマレー語の例文集や文字の研究、ドイツ語、ポルトガル語との比較研究などもなされていて、この地域の言語研究資料としても興味深いものといえます。

 帰国の途についてからのことを記す第16(222頁〜)章では、上司であるクライアーによる離任証明書(推薦書)を掲載するとともに、クライアーがマイスターに当てた書簡を掲載しており、帰国後にベルリンのメンツェルへの情報提供についての指示と二人が調査し得た植物のリストが記されています。続く第17章(228頁〜)でも、より包括的なマイスターによる研究の対象となった植物がアルファベット順で列記されています。第18章(237頁〜)は帰路の各地で見聞した様々なことが記されていて、特に再び訪れた南アフリカについては詳しく論じています。また、第18章末尾では、1688年にバタヴィアを出港してオランダに向かった東インド会社の船団がもたらした主な産品とその総量について一覧する形で紹介しています。第19章(264頁〜)から第21章までは、オランダ東インド会社による貿易を地域、産品ごとに整理して記述しており、ここでも再び日本での貿易についてかなり詳細に論じられています。最後の第22章(291頁〜)は付論となっていて、マイスターが聞いたという日本の王族の血を引くとされるバタヴィアの解放奴隷の不思議な話について記しています。

 このように、本書は全体のかなりの紙幅が日本についての記述に当てられているもので、ケンペルに先んじた記念すべき日本研究書に位置付けられてしかるべき文献と思われます。また、それと同時にバタヴィアを中心とした植物や統治の政治、文化、言語、宗教状況なども記した貴重な地域研究書としても価値ある作品となっています。40年近くにわたって数度増刷されたと言われる文献であるにも関わらず、現存する部数はかなり少ないようで、国内ではわずかに数機関が所蔵しているだけのようです。書物それ自体の重要性は言うまでもありませんが、こうした国内の所蔵状況に鑑みても、本書は今後のさらなる研究調査がなされるべき重要な文献と言えるでしょう。


 *なお、本書についての研究は決して多いとは言えませんが、本書を読み解く上で大いに参考になるものが数点あります。中でも、自身が庭園師でもある庭園文化史の研究者カウテルト(Wybe Kuitert)氏による論文(「ゲオルグ・マイスター:17世紀の庭師および彼の東洋庭園論(Georg Meister: A seventeenth Century gardener and his reports on Oriental garden art) 」Nichibunken Japan Review: Vol.2, 国際日本文化研究センター, 1991 / 「ゲオルグ・マイスターが見た江戸初期の長崎庭園(Nagasakigardens and Georg Meister(1653-1713))」『京都造形芸術大学紀要』第3号、1997年所収)や、ヴォルフガング(Michel Wolfgang)氏による論文(「ゲオルグ・マイステルの日本語研究(Die Japanisch-Studien des Georg Meister(1653-1713)」九州大学独仏文学研究会『独仏文学研究』第36号、1986年所収)は、大変参考になります。

「マイスターは1688年1月4日に、帰国艦隊でバタビアを後にして同年8月12日にオランダに着いた。アムステルダムでクライアーに頼まれた事を片付けた後、東インド会社から11年と4か月分の給料を受け取ってから、ドイツに向けて旅立った。この間、各地の庭園を見学し、1689年12月にドレスデンについてザクセン選帝侯に雇われ、いわゆる東洋園芸の技術者として、主に亜熱帯と熱帯の植物の栽培や管理の責任を任された。1692年には、ツヴィンガーZwinger宮殿の庭園の一部を、また1699年には「トルコ風」庭園の世話を任されるようになった。彼はその間の1692年に、インドネシアや日本で経験した事をまとめた著書”Der Orientalisch-Indianiche Kunst- und Lust-Gärtner”(『東インドの庭園技師』)を出版したが、これは1731年までに5回も版を重ねるほど人々に愛読された。また、インドネシアと日本からマイスターが持ち帰った約300種類の植物標本は、ダンツィヒのブライン(Jacob Breyne, 1637 - 1697のこと:引用者註)の手によって整理され、1689年に出版されてからは、クライアーとケンペルのこの方面の仕事と並んで、日本の植物研究の基礎となった。」
(ドイツ-日本研究所ほか編『ケンペル展:ドイツ人の見た元禄時代』ドイツ日本研究所、1990年、135,136頁より) 

刊行当時か、それよりやや後年のドイツ語圏によく見られる厚紙装丁。背表紙付近に紙テープによる応急補修がなされている。
見返しには書き込みがある。
特徴的な口絵とタイトルページ。
日本と中国の人物を描いたと思われる二人の人物が、本書のタイトルとマイスターの名を記したローブを手にしている。その足元には本文中でも扱われるアフリカ南部沿岸地域やバタヴィア周辺の豊かな果実類が描かれていて、人物の背後には二艘のジャンク船が行き交う内海に日が昇る様子が描かれている。この海は一説には長崎湾を描いたものとも言われている。
長大なタイトルページ。本書の収録内容の概要とも言える。
献辞文冒頭箇所。
マイスターの肖像画も収録されている。
読者への序文冒頭箇所。
本文冒頭箇所。本書は、本文全22章で構成されていて、マイスターがアムステルダムを出発して、希望峰、バタヴィア、そして日本を訪れた際の記録が概ね時系列に沿って記されている。
往路で立ち寄った現在の南アフリカでは、「ホッテントット」と呼ばれた現地の人々についての考察が詳しくなされている。この名称は現在蔑称、差別用語として用いられていない。
第5章から第9章までがクライアーの勤務地でオランダ東インド会社の拠点のあったバタヴィアでの見聞を記した記事となっている。
第7章(48頁〜)ではココナッツについて図版とともに論じられている。
第8章(70頁〜)・第9章では、当地の樹木や植物について図版を複数交えながら個別の名称を挙げて解説している。
ここではすでに日本に関係する記事も混じっており、例えば樟脳(Camphora)を紹介した記事では、「日本語では「くすのき(Cusnocy)」と呼ばれている」(78頁)などという形で、日本語での名称を合わせて紹介されている。
日本についての本格的な記述が始まる第10章(129頁〜)は、まず日本についての概略を述べることから始まっていて、日本が異教の国である一方で、その学問、芸術、文化、政治機構についてはヨーロッパとなんら遜色のない高い水準にあることなどが論じられる。
特に長崎(Nange Säqui)と出島の様子、オランダ東インド会社との関係などが、かなり詳細に論じられている。
「奇妙なスタンプ」として、印章が文中の図版入りで紹介されている。マイスターの観察眼は大小あらゆる事項に向けられており、いずれの記述も非常に興味深いものばかり。
彼が耳にした非常に厳しいキリスト教の弾圧や過酷な刑罰は、プロテスタントであったマイスターにも強い影響を与えたようで、これらについても個別に記している。
これらの記述は、マイスターが実際に見聞したことに基づいて書かれており、17世紀後半に日本を実際に訪れた外国人による日本社会研究として、非常に高い学術的価値が認められると思われる。
日本に固有の植物について、それぞれの植物名を挙げながら、およそ90近い植物が紹介されていて、その数の多さに驚かされる。
さらに注目すべきことに、マイスターは彼が耳にし得た当時の日本語での呼称をそのままローマ字に転記して、植物の名前を記している。読解が困難なものもあるが、「Sarnomery(サルなめり=百日紅)」など現在でも推測できるものが多い。
マイスターによる日本語の音表記をそのまま用いる命名法は、クライアーとも交流のあったケンペルにも影響を与えたと言われている。
第11章(182頁〜)では、長崎近郊で彼が目にすることができた庭園についての考察となっており、日本様式と中国様式のそれとを明確に分類しながら、自然美を過度に人工的に手を加えることなく再現する、当時の日本庭園の素晴らしを絶賛している。
第12章(184頁〜)は、マイスターによる日本語研究で、アルファベット順に語彙を彼が聞き取った発音で列記している。
解読が難しいものも多いが、Bambus / Taky(竹)、Blumen / Fanna(花)、brechen / Jabrimesh (破ります)、Camphor / Cusnocy(クスノキ)、Gesehen haben / Mimasta(見ました)、Haar / Camy(髪)など容易に読めるものも多い。「キリスト教徒(Christen)」のことを指す日本語として「南蛮人」(Nambanschyn)を挙げていることも興味深い。
「私にはできません」(Ich kan nicht)という文は、「なりません、または、ならぬ」(Narimaschyn, s. Narrang.)と訳されており、マイスターがある程度日本語の文章も理解できたことをうかがわせる。
「Oberhaupt der Holland / Kapadaein samt Hollande(オランダカピタン様)」など興味深い単語も多い。
第13章(193頁〜)も同じくマイスターによる日本語研究の大変ユニークなもので、日本の二人の人物、Ginnemon(銀右衛門?)と、Susabro(寿三郎?)の会話編ともう一つの会話編と二つの会話編が掲載されている。ドイツ語と彼が聞き取った日本語とが併記されていて、珍しい植物を買いに出かける二人の会話が再現されている。例えば、最初の文章では 「Guten Tag mein herr Ginnemon. / Jevi degusserrimesch Ginnemon(よい日でござります、銀右衛門)」とある。
会話の内容自体も大変興味深いものであると同時に、当時の長崎で用いられていた言葉を知ることができる貴重な資料にもなっている。マイスターによるこれらの日本語研究は、カソリック宣教師によるものを除けば、鎖国時代における日本語研究の先駆的なものと思われる。
巻末に収録されている折込図版は、テキストの日本語研究の箇所に対応するもので、漢字とその読み方について記してある。
ひらがなの一覧とその読み方について記した図も収録している。
続く第14章(197頁〜)は、1685年から1687年にかけての日本訪問でマイスターが見聞したことや、彼による日本論が述べられていて、日本が宗教的問題点を抱えていることを非難しつつも、洗練された高い文化水準を有していることを称賛している。
第15章(203頁〜)はマレー語の会話編となっていて、マレー語の例文集や文字の研究、ドイツ語、ポルトガル語との比較研究などもなされており、この地域の言語研究資料としても興味深い。
帰国の途についてからのことを記す第16(222頁〜)章では、上司であるクライアーによる離任証明書(推薦書)を掲載するとともに、クライアーがマイスターに当てた書簡を掲載しており、帰国後にベルリンのメンツェルへの情報提供についての指示と二人が調査し得た植物のリストが記されている。
続く第17章(228頁〜)でも、より包括的なマイスターによる研究の対象となった植物がアルファベット順で列記されている。
第18章(237頁〜)は帰路の各地で見聞した様々なことが記されていて、特に再び訪れた南アフリカについては詳しく論じている。
第18章末尾では、1688年にバタヴィアを出港してオランダに向かった東インド会社の船団がもたらした主な産品とその総量について一覧する形で紹介している。
第19章(264頁〜)から第21章までは、オランダ東インド会社による貿易を地域、産品ごとに整理して記述しており、日本をはじめとしたオランダによる東インド貿易のネットワークと当時取り扱われていた様々な商品を地域ごとに見ることができる。
最後の第22章(291頁〜)は付論となっていて、マイスターが聞いたという日本の王族の血を引くとされるバタヴィアの解放奴隷の不思議な話について記している。
巻末には索引が掲載されている。
小口は三方とも赤く染められている。