書籍目録

『北方探検記集』第3巻(「日本島についての覚書」「蝦夷発見記」「日本大王国志」「東方韃靼記」「日本との通商関係樹立のための覚書」ほか収録)

バーナード(ベルナール)編 / フリース / カロン / マルティニほか著

『北方探検記集』第3巻(「日本島についての覚書」「蝦夷発見記」「日本大王国志」「東方韃靼記」「日本との通商関係樹立のための覚書」ほか収録)

初版 第3巻(全3巻中)  1715年 アムステルダム刊

Bernard, Jean Frederic (ed.) / Vries, Maarten Gerrîsz / Caron, François / Martini, Martino…[et al.]

RECUEIL DE VOIAGES AU NORD, Contenant divers Memoires tres utiles au Commerce & à la Navigation. TOME TROISIEME.

Amsterdam, Jean Frederic Bernard, M. DCC. XV(1715). <AB202110>

Sold

First edition. 3rd vol. only (of 3 vols.)

12vo (9.0 cm x 15.6 cm), Title., 1 leaf, folded map, pp.1-32, folded map, pp.33-340, Contemporary vellum.
[Landwehr's VOC: 262]

Information

折込日本図を含む多数の貴重な日本関係記事を収録

 本書は、フランスの著述家、出版人であったバーナード(Jean Frederic Bernard, 1680 – 1744)が編集した『北方探検記』第3巻にあたるもので、初期オランダ商館長として多大な貢献をなしたカロン「日本大王国志」をはじめ、カロンが後年使えたフランスにおいて、コルベールの命によって著した「日本との通商関係樹立のための覚書」、オランダ人フリースによる現在の北海道付近の航海の記録である「蝦夷発見記」等々、日本に関係する極めて重要な記述が多数収録されている非常に重要な文献です。

 バーナードは、『偶像崇拝の国々の宗教文化と儀式(Cérémonies et coutumes religieuses de tous les peuples du monde. 1723-27)』の執筆者としても知られるように、世界各国の風習、文化に強い関心を持っていたものと思われます。また、1725年にはコメリン(Isaac Commelin, 1598 - 1676)の『東インド会社の起源と発展(Begin ende voortgangh van de Vereenighde Nederlantsche Geoctroyeerde Oost-Indische Compagnie, 2 vols. Amsterdam. 1644 / 1645 / 1646.)』のフランス語訳(Recueil des voiages qui ont servi à l'établissement et aux progrès de la Compagnie des Indes Orientales, formé dans les Provinces Unies des Pais-bas. 7 vols. Amsterdam, 1702-1707)の出版も行っています。バーナードが、ヨーロッパにとって特に未解明であった北方海域について、当時最新の知見を集成すべく刊行したのが本書『北方探検記』全3巻です。ユーラシア大陸を北東に向けて航海して直接アジアに到達しようとする北東航路、またアメリカ大陸の北西を直接アジアに到達しようとする北西航路の開拓は、大航海時代の後発国であるオランダ、イギリス、フランスにとっての彼岸で、16世紀末以降、様々な試みがなされて続けていましたが、この北東航路と北西航路の実現のためには、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の「北方」、ならびに両大陸の間に位置する海域の地理情報の把握が必要不可欠でした。バーナードによる『北方探検記集』はこうした情報を提供するために編纂されたものと思われ、刊行直後から好評を博し、多くの海賊版や異本、後年の続編が出されるなど、多くの人々に読まれたことがわかっています。本書は、1715年にアムステルダムで最初に3巻本として刊行され、それ以降も版を重ねると同時に第4巻以降も次々と刊行され、最終的には構成を変更しながら全10巻にまで拡張されています。本書は、1715年に3巻本として刊行された初版の第3巻にあたるもので、特に日本関係記事を多数収録している点において、注目に値すべき文献です。

 本書に収録されている日本関係記事を列挙しますと次のようになります。

1. リール「『日本は島であるか否か』という問いについての書簡」(32-43頁)
2. フリース「日本北方のエゾの発見記」(44-56頁)
3. カロン「日本大王国志」(57-141頁)
4. マルティーニ「東方韃靼記」(142-179頁)
5. 「日本に関する追記と覚書」(180-185頁)
6. カロン「コルベールの命によって書かれた日本との商業関係樹立についての覚書」(181-197頁)
7. 「フランス国王よりシャム、韃靼、中国王朝への派遣施設への訓令指示書」(197-208頁)
8. 「フランス国王より日本皇帝に派遣されるカロンに対する訓令指示書」(209-220頁)
9. 「日本皇帝より発せられたポルトガル人の日本来航を禁止する命令書」(220-222頁)
10. 「中国近くのオランダに帰属する台湾島における、東インド会社と日本の2隻の船舶との間で生じた特筆すべき出来事について(1627年ヌイツ捕縛事件報告)」(223-246頁)
11. 「日本帝国の平戸においてオランダが設置した商館施設の解体についての歴史的記録。平戸商館日記より抜粋」(246-256頁)

 このように、日本に関係する記事が実に多く収録されていることがわかりますが、特筆すべき点はその分量だけでなく、収録記事の質の高さにもあります。

 1の著者であるリール(Mr. de Lisle)についての詳細は不明ですが、この論考では、当時「日本」と呼ばれていた本州と、その北方にある蝦夷(現在の北海道)が繋がっているのか否か、また蝦夷がアジア、あるいはアメリカ大陸とつながっているのかどうかについて、それまでヨーロッパで刊行された日本図や記事を比較検討しながら論じたものです。リールは、イエズス会士フロイスの書簡や、本書に収録されているカロンの著作なども援用しながら考察を行なっており、北東航路の実現のために重要な位置を占めていた蝦夷近辺の地理情報をできるだけ多角的に整理しようと試みているようです。この論考は、『北方探検記』の編者であるバーナードの意図に最も沿った内容であることから、冒頭に置かれたものと思われます。

 この記事、並びに本書に収録されている日本関係記事全体を補うために、本書には東洋学者レーラント(Adriaan Reland, 1676 - 1718)がある日本の地図(石川流宣による日本図)をもとに発表したばかり「日本帝国図(Imperium Japonicum)」の改変版である「66か国に分かれたる日本図(Le Japon divisé en Soissante et six provinces)」が収録されています。この地図は、1691年に石川流宣が刊行した「大日本国大絵図」に基づいて作成されたもので、原図をただそのまま翻刻するのではなく、本図中央下に見られるように長崎湾付近を描いた図を挿入しているほか、主要な大名家の家紋と思しき紋章を多数掲載しています。この図は、原図となった石川流宣の「大日本国大絵図」が、地理学的な意味での正確性よりも、ある程度デフォルメを施して日本全体を描くことを優先した地図であったことから、西洋製の日本図の精度としてはそれ以前にすでに製作されていた地図よりも後退することになってしまったことは否めませんが、各国(藩)名が漢字でそのまま記されていることから、地名の理解という点ではこれまでの西洋性に本図にはない大きな特徴を持っています。この非常に特徴的な地図は、ヨーロッパでも好評を博したようで、本書刊行以降も様々な形で繰り返し再販されています。なお、本書が刊行された1715年と同年に単独地図としてレーラント自身が出版した地図と、本図のいずれが初版に該当するものかについては、長らく議論が続いていました(ジェイソン・C・ハバード『世界の中の日本地図』2018年、柏書房(日本語版)、314-320頁参照)が、本書テキストにおいて、はっきりと「レーラントの地図」と記されていますので、ここから、やはりレーラント自身によるものが先行する図であったことが明らかになると思われます。 

「18世紀の第一四半期に、ヨーロッパでは日本の描写が大きく後退した数点の地図が登場した。最初はオランダの東洋学者、アドリアーン・レーラントによるもので、ユトレヒトの書籍、地図の出版業者ウィルヘルム・ブルーデットにより、一枚ものとして発行された。タイトルはラテン語で Imperium Japonicum であった。それはのちに数々の複合地図帳に所載されることになった。地図はプロヴァンスからのフランス人難民で、アムステルダムに定住したジャン=フレデリック・ベルナールによって、同年複製が作られ、世界の北方海域の航海記の選集 Recueil de Voiages au Nord... に「66カ国に分かれた日本(Le Japon Divisee en Soissante et Six Provinces)」として所載された。ブルーデット版の解説によると、その図はオランダ東インド会社の高官であったベンヤミン・ダドレーの蔵書にあったもので、鎖国時代に出島の工房から首尾よく密輸された流宣型地図であると判明した。西洋人の目からすれば、日本人は外国人より自国の地理をよく知っていると思うのはごく自然なことで、事実そうだった。だが西洋人は地図製作の方法論も同じように似ていると推測したので、単純に日本の地図から国土の描写を借用し、緯度経度の概念を加え、日本語地名の音を拾ってオランダ語風にして、「日本の地図から採った……」とだけ注釈を付けて刊行した。レーラントの地図は複製が作られ、アムステルダムの出版業者シャトランにより『歴史地図帳(Atlas Historique)』のすべての版に所載され、アウグスブルクの地図製作および発行業者のマテウス・ゾイターにより1732年頃からの彼の地図帳に所載された。」
(ハバード前掲書、62頁より)

 2は、オランダの航海士であるフリース(Maarten Gerrîsz. Vries, ? - 1647)が1643年に行った日本の北方海域の航海の記録を翻訳したものです。フリースの航海は、ヨーロッパ人による同海域の最初の航海となり、北海道東岸や択捉、得撫島などの測量情報をヨーロッパにもたらしたことで知られています。フリースがもたらした情報は、長きにわたって日本北方海域の貴重な情報としてヨーロッパにおいて影響力を与え、同地域の地図作成の際の最も権威ある情報として重宝されています。特にこの海域の最新情報を収集することが、編者バーナードの狙いだったとことに鑑みれば、この記事が2番目に掲載されていることも非常に合点がいくものです。

 3『日本大王国志』は、1619年から1641年までの長きに渡って日本に滞在し、オランダによる初期の対日貿易の基礎を築いたカロン(François Caron, 1600 - 1673)が、日本の政治・経済・社会について、オランダ東インド会社のバタヴィア総督の諮問に答える形で報告したものです。『日本大王国志』は1645年にオランダ語でカロンの許可を得ないまま出版されて以降、数多くの異本、改訂本、翻訳本が生み出されており、17世紀中を通じて、ヨーロッパにおける日本情報として最も信頼に足る情報として広く読まれました。本書に収録されているテキストは、カロン自身が校閲を施した1661年のオランダ語改訂版に基づいて、再度カロンの校閲を経た上で1673年に刊行されたフランス語版の再録です。このフランス語版は、単独の書籍として刊行されたのではなく、テヴェノー(Melchisédech Thévenot, 1620? - 1692)による『旅行記集成(Relation de divers Voyages curieux…1673)に『日本帝国についての記録(Relation de l’Empire du Iapon.1673)』と題して収録されています。このフランス語テキストは、カロン自身が手を加えたオランダ語版にさらに訂正を加え、テーヴェーノーの質問に答える形で、日本の医学書についての記事を冒頭に新たに追加したもので、この日本の医学書についての質問とその回答については、英語訳版を定本とした邦訳版にも収録されていないことから、大変貴重な記事と言えます。

 4を著したマルティニ(Martino Martini, 1614 – 1661)は、1642年から10年近くにわたって中国宣教に従事したイエズス会宣教師ですが、彼はさらに北方の韃靼と呼ばれる地域、そしてその海上を隔てた先にある蝦夷についての地理情報の収集にも尽力しており、ここに収録されている記事はまさにその成果を発表したものです。マルティニは明朝末期の1643年に杭州に到着して以来、各地を宣教師ながら移動を続け地理情報の収集と整理に努め、帰国後の1655年に出版した『中国新地図帳(Nous atlas Sinensis, Amsterdam, 1655)』は、同地についての詳細な地図情報をヨーロッパで初めて本格的に紹介した画期的な地図帳として高い評価を受けました。この地図帳に収録された日本図も同様に高い評価を受けており、ヨーロッパにおける、日本や蝦夷を含めた東アジア地域の地理情報の水準を高めることに大いに貢献したマルティニのテキストは大変重要なものと言えます。

 5から11までは「日本関係補遺」としてまとめられているものですが、いずれも非常に資料的価値が高いと思われる記事ばかりです。カロンは、離日後バタフィアの商務総監を務めるなどオランダ東インド会社の要人としてキャリアを重ねますが、会社との行き違いもあって1651年に帰国し会社を去ることになったところ、ルイ14世によってその絶頂期を迎えつつあったフランスの財務総監コルベール(Jean-Baptiste Colbert, 1619 - 1683)に請われて設立まもないフランス東インド会社に破格の待遇で迎えられることになりました。1661年にパリに赴いたカロンは、コルベールに対してフランスによるアジア貿易振興策を矢継ぎ早に提案しており、この時に作成したと思われる、フランスによる極東地域への使節派遣に向けた訓令書の草案が、7, 8であると思われます。9, 10, 11は、これらの草案を補足するべく、日本とヨーロッパとの交易の歴史を理解する上で重要と思われる事件に関連する資料をまとめたものと推察されるものです。ポルトガルが日本を追われることになった経緯を報告した公文書や、初期の日蘭貿易において深刻な問題をもたらした、台湾におけるオランダ東インド会社と日本の朱印船との間で生じた事件(オランダ東インド会社総督の名に因んでヌイツ事件と呼ばれる)の報告、そして平戸のオランダ商館が取り壊し命令を受けた際の記録を、平戸商館日記から翻訳する形で掲載しています。いずれもカロンが深く関与した事件であり、恐らくカロンが先の訓令書草案をコルベールに提出する際に合わせて提出したものではないかと思われます。

 本書はこのように、18世紀初頭のヨーロッパにおいて非常に充実した、しかも最新の日本情報を提供するもので、その資料的価値は看過しない重要性を書物であると思われますが、叢書第3巻に記事が収録されていることもあってか、これまであまり顧みられることがなかった資料です。本書に収録されているユニークな日本地図や、豊富な日本関係記事の多くは、他の類書で見ることのできない貴重な情報であることに鑑みると、研究素材として大きな魅力を備えた一冊ということができるでしょう。

刊行当時のものと思われる装丁で状態は良好。
タイトルページ。『北方航海記集』は海賊版も含めて様々な版が存在することが知られているが、本書は1715年に3巻本として最初に刊行された初版の第3巻。
目次①
目次②
リール「『日本は島であるか否か』という問いについての書簡」(32-43頁)冒頭箇所。
東洋学者レーラント(Adriaan Reland, 1676 - 1718)がある日本の地図(石川流宣言による日本図)をもとに発表したばかり「日本帝国図(Imperium Japonicum)」の改変版である「66か国に分かれたる日本図(Le Japon divisé en Soissante et six provinces)」が収録されている。
原図となった石川流宣の「大日本国大絵図」が、地理学的な意味での正確性よりも、ある程度デフォルメを施して日本全体を描くことを優先した地図であったことから、西洋製の日本図の精度としてはそれ以前にすでに製作されていた地図よりも後退することになってしまった感は否めないが、各国(藩)名が漢字でそのまま記されていることから、地名の理解という点ではこれまでの西洋性に本図にはない大きな特徴を有している。
(参考)本書と同年1715年に刊行されたレーラントの日本図。本書との前後関係が論じられたこともあったが、現在では上掲図の方が先行する地図であることが確かめられている。上掲図の方が本書収録図よりもかなり大きく、また地図下部の装飾や家紋の描き方などの相違点がある。
フリース「日本北方のエゾの発見記」(44-56頁)冒頭箇所。
カロン「日本大王国志」(57-141頁)冒頭箇所。この冒頭の記述は、本書も含めたフランス語版でしか読むことができず、英訳本を底本とした邦訳本にも収録されていない貴重な記事。
大名の石高を詳細に記した箇所。
カロン『日本大王国志』は、フランス語版だけに収録されている冒頭の記事に加え、全31問の質問に回答する形で記述されていて、17世紀のヨーロッパにおける日本情報の最大の権威として多大な影響力を持った。
「第15問、カソリック信者の迫害について」冒頭箇所。
マルティーニ「東方韃靼記」(142-179頁)冒頭箇所。
マルティーニ記事の中には蝦夷についての記述も含まれている。
「日本に関する追記と覚書」(180-185頁)冒頭箇所。以下に収録されている記事は本書でしか読むことができない貴重なものばかりである。オランダ東インド会社を半ば追われる形で辞したカロンが、その後採用されたフランス東インド会社にもたらした機密情報や、フランス東インド会社の日本への使節派遣計画に関する資料などが含まれている。
カロン「コルベールの命によって書かれた日本との商業関係樹立についての覚書」(181-197頁)冒頭箇所。
「フランス国王より日本皇帝に派遣されるカロンに対する訓令指示書」(209-220頁)冒頭箇所。
「日本皇帝より発せられたポルトガル人の日本来航を禁止する命令書」(220-222頁)冒頭箇所。
「中国近くのオランダに帰属する台湾島における、東インド会社と日本の2隻の船舶との間で生じた特筆すべき出来事について(1627年ヌイツ捕縛事件報告)」(223-246頁)冒頭箇所。
「日本帝国の平戸においてオランダが設置した商館施設の解体についての歴史的記録。平戸商館日記より抜粋」(246-256頁)冒頭箇所。